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第二 生れ甲斐ある人となれ(後編)

なぜ,嘉納はセネカ(ストア哲学)を引用したのだろうか.

人生の一大事は,いかに賢明に生活するかにありいかに長久に生活するかにあらず.

セネカ

この文章に似た文章は,他にもあっただろうに.
私は,そう考えてしまう.だから,勝手に読み解いてみる.
ストア哲学は,ヘレニズム時代(BC500年くらいからBC27年)に隆盛を極めた4大学派の哲学の一つである.アカデメイア,リュケイオン,エピクロス派,そしてストア派である.
エピクロスの快楽主義とストアの禁欲主義は聞いたことがあるかもしれない.ここでいう快楽は,美味しい飯や酒に心が奪われ,恋人に夢中になることではない.「快楽」と「禁欲」の言葉は,大きく違うように思えるかもしれないが,両方とも「心の平静」を追求するものである.

エピクロスはパトス(激情,情熱,情念)から遠ざかることで精神的な快楽を追求し[アタラクシア:魂が掻き乱されていない静穏な状態へ|石井追記],そこで生まれる生活を幸福と考えました.それに対してストア派は,幸福とは徳を追求した結果として得られる,パトスに動揺しない心(不動心)に至ることだと考えました.その状態をアパテイアと呼びました.つまり,ストア派は,心の平静はそれだけを追求しても得られず,人生の徳を実践することで結果的に得られるものだと考えたのです.

出口治明,哲学と宗教全史

この文章からもわかるように,ストア派は,徳を実践することが重要である.嘉納は,セネカの「賢明に生活する」を徳を実践すると読み,この文章を引用したのかもしれない.ただ,エピクロスは不幸な運命を背負った女性たちが,学びに来ていたと伝えられており,ストア派の哲学はローマのリーダーたちの哲学として確立される.

ローマの身分ある家柄に生まれた人々は,自分の運命を認めて堂々と生き,理性で感情を抑え,徳を積んでゆくことに積極的に取り組みました.それが民衆の上に立って生きるエリートとして,いかにもふさわしい思想だと考えたからでしょう.

出口治明,哲学と宗教全史

という特徴もあり,エリートでリーダーである嘉納にとって受け入れやすかったという見方もできる.
この章の早々に引用したノックアウトクラスの2つのパンチ(孔子とセネカ)は何を意味しているのだろうか.それは,この2つの類似する精神状態にあるかもしれない.

[ストア派は]万物を動かす根源にある自然の理法(道理にかなった法則)と,矛盾なく合致する人間の性格と行動がある.それがすなわち善(あるいは善を実現する力である徳)である,反するものが悪であると考えました.

出口治明,哲学と宗教全史

これと孔子の「忠恕」が類似している状態にみえる.
また,ストア派は

4つの性状を,最大の徳と考えました.知恵,勇気,正義,節制です.[中略]悪徳とは,無思慮,臆病,不正,放埒です.さらに最大の悪徳は,人間が守らなければならない4つの徳が存在することを,無知にして知らないことだと考えました.

出口治明,哲学と宗教全史

これが,前半で引用した

人が「忠恕」の状態にあるとき,そこにたどるべき「道」が見える.[中略]この惑いがなく,道がはっきり見えている状態が「知」である.

安冨歩,生きるための論語

と一致してくる.「忠恕」で徳を知っている状態になると「道」がみえて,実践することでアパテイアに至り,幸福になると読むこともできる.
これは,無意味に生死終始することとは明らかに異なることがわかる.嘉納がこのように読んだかはわからないが,2つの引用を並べたことに意味があるとするならば,私はそのように解釈した.
嘉納も,

いかにして生れ甲斐ある人となることが出来ようか.これは人生の最も重大なる問題で,その解釈ははなはだ多方面に亘るべきものである.

嘉納治五郎,嘉納治五郎体系第7巻「青年修養訓」

と,解釈の難しさを先にあげており,この章では要領を述べるとしている.
先ほど,ストア派では「善を実現する力である徳」というものを人が持っているとしたが,嘉納は多くの生物と人類の違いを以下のように述べている.

(生物の)多くは皆その天賦の本能に従って生活するのみである.[中略]これらはただ日夜営々として本能の示すまにまに同様の生活を反復し,声明を維持し,種族の繁殖しようとするに過ぎないのである.しかるに人類は,自己のとるべき目的を定めこれを達すべき手段を講じ,艱難(困難にあって苦しみなやむこと)と闘い障害を排し,奮励努力してその目的を実現するところの霊活なる能力を有している.

嘉納治五郎,嘉納治五郎体系第7巻「青年修養訓」

だから,この能力を運用することが大事だよということである.で,ここから,怒涛の嘉納のご鞭撻モードに突入する.

人にしてこの能力を運用しないで確固たる目的を定めて努力するところのないものは,いわゆる行屍走肉であって,人たる価値がないものといってもしかるべきである.

嘉納治五郎,嘉納治五郎体系第7巻「青年修養訓」

世俗と共に浮沈して,苟且因循(こうしょいんじゅん),附和雷同(ふわらいどう),一時の安を偸みつつある間に,「時」の流れはいつしか彼らを永遠の暗闇に葬り去ってしまうのである.

*苟且因循:昔からある習慣や方法に必要以上にこだわって改めることをせずに、その場その場でやり過ごすこと.
*附和雷同:自分にしっかりとした考えがなく、他人の言動にすぐ同調すること

嘉納治五郎,嘉納治五郎体系第7巻「青年修養訓」

ここまででも,かなり厳しいが,最初に目的を立ててた人も追い込みだす.

彼らの中には,当初は多少の目的を立てて事を始めるものもないではないけれども,堅忍不抜(けんにんふばつ)の意志の力が足りないために,わずかの艱難にも辟易(へきえき)し,少しの失敗にも沮喪し,ついに挫折自棄してしまって,初めから目的のなかったものと同様の結果に終わってしまうものが少なくないのである.

*堅忍不抜:どんなことがあっても心を動かさず、じっと我慢して堪え忍ぶこと.
*沮喪:気力がくじけて元気がなくなること

嘉納治五郎,嘉納治五郎体系第7巻「青年修養訓」

厳しいすぎる(;´Д`)
この他にも「世間多数の人の実状は~」とさらに厳しい言葉が続く.皆さんにも是非この章をすべて読んでほしいと思う.
ここまで読むと,先述したがエリートやリーダーの養成にもみえてしまう.
この章の最後は,以下が引用されている.

余はただ一回この世を通過するのである.ゆえにいかなる善事にてももし余がこれをなし得るならば,またいかなる親切にても余が人に尽くし得るならば,即時にこれをなすべきである.これを延期し,または懈怠するようなことがあってはならぬ.余は,再びこの道を経過しないからである.

マルクス・アウレリウス,嘉納治五郎体系第7巻「青年修養訓」の中での引用

我よりも前なるもの,千古万古.我より後になるもの,千世万世.たとい我が寿命を保つこと百年なるも,また一呼吸の間のみ.今幸いに生れて人となる.庶幾くは人たることを成し終りてここに已まん.本願ここに在り.

佐藤一斎,嘉納治五郎体系第7巻「青年修養訓」の中での引用

マルクス・アウレリウスもストア派であることから,嘉納はストア派の哲学に共感しているのだろう.ここでは,前半にも引用した嘉納の以下の言葉で終わる.

ああ人生は再び得難し,青年の士よ,猛省して覚悟するところにあれ

嘉納治五郎,嘉納治五郎体系第7巻「青年修養訓」

と,青年に対して,二度とない人生だから早く理解して,実践しようということだと思う.第二は,内容も難しく,長くなってしまったので,最後にもう一度,この章の主張を簡単にまとめて終わる.

第二の嘉納の主張まとめ

  • 人として生まれたなら禽獣草木とは異なる「人」として生きよ

  • 人として生きるというのは,天賦の能力を修養し運用すること

  • 天賦の能力とは,天賦の本能とは違い,自己の取るべき目的を定め,工夫して手段を講じ,障壁を乗り越えて,目的を実現すること

  • 人は社会から多大な恩恵を受けているので,報いるのは当たり前で,一層進んで社会の益になることを図るべきである

  • 二度とない人生だからこそ,猛省して,覚悟しよう


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