少女像とフラワーデモと紙一重の紙

あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」が脅迫により中止に追い込まれたことについて、静岡県の川勝平太知事に記者会見で見解を尋ねた。「表現の自由は大切だが、人の心を逆撫でするようなものはよくない。これはまあ、常識的なものですね」。予想はしていたが、この程度の人だった。そして「この程度の人」が日本で毎日毎日増殖し続けているのを黙ってみているのが嫌になったので、私はnoteを書くことにしました。本来は新聞記者は記事にすべてを語らせるべきなんだけど、事実を書いただけでは、何がおかしいのか、通じない人が日々増えていて、追いつかない。そんな焦燥感が根っこにあります。静岡版にはコラムもありませんしね。ちょっと長くなりますが、おつきあいください。

表現の不自由展の中止に対し「人の心を逆撫でするようなものはよくない」というのは、首相演説にヤジやプラカードを掲げた人が排除された事件で「人の話は静かに聞きましょうと教わらなかったのか」と非難する人と、自由権の本質を理解せずに、くだらない修身の徳目を上から説教しているという点において相似形です。私はこの夏、こういう「つまらない人間」が私の周りにも手を付けられないほど増殖しているのを目の当たりにして、本当に驚いています。いつ、どうしてこんなことになった?

この夏、フラワーデモの開催を手伝いました。いつもは取材する側だったので気付かなかったんだけど、街頭活動やデモって、そもそも最初に元手がいるんですよ。警察署に行って、集会の規模や目的を届け出て、道路使用許可を取るのに、収入印紙2300円分を貼って出さなきゃいけない。公園の一部を使うなら、市役所にも届け出が必要です。静岡市からは1時間分の使用料1万6千円を請求されました。無一文で無職だったり、警察から色々突っ込まれて答えられないような人は、そもそも「集会・結社の自由」が行使できない社会なんですよね、日本って。お金がない、住所もない人は街頭で苦境を訴えることすらできない。
繁華街なんで近隣のお店にも「マイクを使うかもしれませんが、よろしくお願いします」と事前にあいさつが必要でした。これも、快くオッケーしてもらえたから良かったけど、もし、「飲食店の前で性暴力の話なんてするな」という人が現れたら??「子どもが通る公道でセックスの話なんてするな」「人の心を逆撫でするのはよくない」というものいいが付いたら?

ことほどさように、私たちの社会で「集会・結社の自由」「表現の自由」は前時代的な「修身の徳目」の前で窒息寸前、紙一重の状況にあるんです。
だから私は絶対に「修身の徳目」の前で黙りたくない。そんなくだらないことを言う人に、疑義を呈し続けたい。
映画「えんとこの歌」で重度障害の遠藤滋さんの生活介護をしている若者がこんなことを言います。相模原の障害者殺傷事件の犯人と自分は紙一重と。言った後でこう続けます。「紙一重だと思うけど、でも、『紙一重』って意外と厚いな、と思いますね」
私に今できることは、たぶん「紙一重」を少しでも分厚くすること。紙一重でも明文化されたものとして憲法にある、その自由に風を渡してやること。サラリーマンだから、新聞社という組織の中の人だから、いい「大人」なんだから、と引っ込めてきた言葉を少しずつ解放することが、私にとっての憲法を守るための「不断の努力」です。

山田太一のドラマ「早春スケッチブック」の中で、山崎努演じる竜彦が、波風立てることを何よりも嫌うサラリーマン一家の息子に言ったセリフを、反芻する立秋の朝。ものを言わぬ秋を迎えないために。
「一体、お前らの暮らしは、なんだ!
どうせ、どっかに勤めるか?
どうせ、たいした未来はないか?
バカいっちゃいけねえ。そんな風に見切りをつけちゃいけねえ
人間てものはな、もっと素晴らしいもんだ
自分に見切りをつけるな
人間は、給料の高を気にしたり、電車がすいてて喜んだりするだけの存在じゃあねえ
その気になりゃあ、いくらでも深く、激しく、ひろく、やさしく、世界をゆり動かす力だって持てるんだ
偉大という言葉が似合う人生だってあるんだ」


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