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階段にいるひと。

ふだん使うことのない都営線の駅で、乗り換えのために構内を歩いていた。改札をいったん抜け、左に折れ、階段を下る。数メートル下に踊り場があり、向きを変えてまた下っていく。踊り場の奥上にはコーナーミラーが設置されていて、そこにイヤフォンで音楽を聴きながら上がってくる若者の姿が映っていた。クリッピングポイントを取ろうとした彼を私は辛うじてよける。
そこで私は向きを変え、さらに階段を下っていく。と、階段の途中に女性が立っていた。はて、コーナーミラーに映っていただろうか。まったく覚えがない。忽然と彼女が現れたように感じられた。
彼女は、左腕を八十度くらいに曲げて、その肘のあたりに買い物袋をぶら下げていた。右手は左肘あたりを支えるようにお腹の前にある。白っぽい(たぶん白ではない)ワンピースに、冷房対策か、サマーカーディガンを羽織っている。眼鏡をかけ、髪の毛はぼさぼさというほどではないけれど、何か少し乱れを感じる。
そんな様子をうかがいながら、私は二段、三段と階段を降りていく。すると、彼女は左足をゆっくりと持ち上げる。しかし段差の半分ほどまで足が上がったところで、元に戻してしまう。膝が痛そうだとか、体が重すぎて持ち上げるのも難儀だといったことではない。
階段の中程にいる彼女に見えているのは、もしかすると全く別の風景なのかもしれない。私は彼女の横を通り過ぎ下っていく。彼女はもう一度足を微かに上げる。しかしまたそこに留まってしまう。
彼女が何を見て、何を思っているのかは分からないが、立ち続けることの苦しさの中にいるのであろうことは感じとれる。それでも彼女は、上るのであれ下るのでれ、そこから歩みを進めなければならない。彼女の階段がどこに続いているのかは知らないが、ここではないどこかへ行くために、あなたは階段の半ばにいたはずだから。
私は階段を降りきると、振り返ることなく、乗り換え口に向かった。

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