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雲の上の存在だった人から突然ブロックされた話

「価値観が合わないので、ブロックさせていただきます」

それは突然のことで、私は思わず「えっ」と短い叫び声をあげてしまった。
殆ど話したことのない、顔も知らない相手からのDM。目は字面を追っていても、頭の中で意味が結びつかず、暫くの間、呆然とiPhoneの画面を見つめていた。

DMを送ってきた人は、優しく繊細な雰囲気の写真が人気の写真家で、多くの人から慕われ、私にとっては雲の上の存在だった。
「素敵な写真ですね」といった言葉をリプライ欄で交わしたことがあったかもしれなかったものの、それだけの関係だった。

事前予告なしの最終通告。
その人がそっとブロックをするのではなく、敢えて私に伝えるという行動をとったという事実をどう解釈して良いのか分からず、本心を確かめようにも既に連絡の手段は絶たれ、憤るべきか悲しむべきかの気持ちの行き場が無く、「もしかしてアカウントが乗っ取られているのかも」と、私は現実逃避のようなことまで考え出していた。

少し時間が経ち、冷静さを取り戻しつつある私の頭の中に、次のような疑問が浮かんだ。

どの発言がまずかったのだろう?

私は、SNSに自分の考えを滅多に書かない。
今年からはこのNoteへの投稿を含め、自分の考えたことを意識的に発信しようとはしているものの、実際にそのようなツイートをするのは、月に一度あるかないかだ。
また、自分の考えたことであれば無条件に発信するのではなく、政治・宗教的な信条やニュースに対する考察などには触れぬよう、それなりに注意深く考えて発信してきたつもりだ。
顔の見えないコミュニケーションに発生しがちな誤解や、無益な争いを避けたいという気持ちがそうさせてきた。

しかし、私にDMを送ってきた人との共通の知り合いに話を聞いてみると、恐らく、私のこのツイートが気に障ったのではないか、という指摘があった。

このツイートをした時は、確か私のツイッターのフォロワー数が2万人を超えたタイミングで、自戒の意味も込めて呟いたのだと記憶している。
しかし、純粋に自らを戒めることが目的なのであれば、何もツイッターという全世界の人間が見ることのできる場で発信しなくても、一人で日記にでも書き留めておけば良いだろう。
あの時の私の中には、いいねの数やフォロワーの数の増減に踊らされているように見える人を揶揄する気持ちがなかったか。
私は他の大多数の人とは違うんだ、と驕るような気持ちがなかったか。
そう問われれば、答えに窮してしまう自分もいる。

あの時、穏やかな気持ちでこの呟きを受け止めることのできる人ばかりではない、という事実が頭を掠めることがなかった、自分の想像力の乏しさには反省すべき点はあるだろう。
ただ、誰一人傷つけまいという決意を守り続けていれば、何も発信できなくなってしまうというのも事実だ。
そして、全ての人間に好意的な印象を与え続けるというのは、この世界は多面的であるが故、それこそ非現実的である。

実際のところ、私にDMを送ってきた人の心の内は誰にも分からない。
その人の心の内を覗き込んで理解したいだなんて烏滸がましいし、人が傷つく理由は人の数だけあるので、色々と想像を巡らせてみたって無駄なのだと思う。

今回の出来事は当然ショックではあったものの、自分の発する言葉が周囲に与える影響に自覚的であろうと考え直すきっかけにもなった。
同時に、自分の考えを自分の言葉で表現することから逃げないためにも、他人をできるだけ傷つけない発信の仕方を模索していきたいとも強く思った。

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