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「自分」から一旦離れてみたい

Noteを始め、意識的に言葉を発信するように心懸けてから約1年が経った。
1年の振り返りの一環として、これまでに執筆したNoteやSNSでの呟きを振り返ってみると、私の文章には「自分」という言葉が頻出することに気がついた。
「自分」の撮りたい写真、「自分」の考え、「自分」の発する言葉、等々。
それは「私」という言葉でも言い換えられるのだろうが、私の使う「自分」は英語でいうと、単純な一人称としての”I”ではなく、むしろ"I myself”のように、殊に周囲との対比や主体性を強調した文脈で使わる傾向が強い気がする。


幼少期から、国籍や文化の異なる人々や、理解の及ばない教義を信奉する大人たちに囲まれて過ごしたり、数年に1回学校が変わるような生活をしてきたことで、嫌でも「周囲」と切り離して「自分」というものを意識せざるを得なかった環境にあったのは確かだ。
意味を解さない言語が頭の上を通り過ぎる雑踏の中、西日の差す教室の中、大勢のクラスメイトに囲まれた体育館の中、「私はここに居ていいんだろうか」という漠然とした不安に襲われたことは何度もある。

「自分に過度に注目しすぎると、苦しくなるよ」
いつだったか、母親に諭されたことがある。
10代の頃、私は本当に本当に捻くれていて、他人と意見とぶつかった時には正論を振りかざして勝手に自己解決する、といったような困った子供だった。
私が正論を振りかざす時、真偽の判定の基準は常に「自分」にあった。
「自分」が正しいと思ったから。「自分」の経験上この考え方は間違っていないから。
発達心理学でいう「心の理論」が十分に獲得できていなかったとも言えるのだが、あの頃の私は、「自分が真実だと思っていることを他人も同じように真実だと思っている」という事実にまで考えが至らず、最も信じられるのは自分だと、一点の曇りもなく信じていた。
そんな当時の私は、母親の目にはきっと、少し無理をしているようで危なっかしく映っていたのだと思う。

大学に進学し、アルバイトやボランティアに従事する中で、それまで以上に多様なバックグラウンドを持った人々と出会った。
知性、社交性、語学力、容姿など、何をとっても自分よりも上の人はいくらでもいて、自分のままでいることに耐えられなくなった私は、手っ取り早く憧れの人や集団の髪型を、言葉づかいを、服装を真似した。
また、授業で興味のある分野の知識を夢中になって吸収していると、私の世界の中心にいた「自分」の輪郭が溶け出し、霞んでいくのを感じた。
そして私は、この世に「自分」ほどあやふやで流されやすいものは存在しないのではないかと、そして、「自分」だけを評価軸に定めることの危うさを実感し始めたのだった。


それから数年が経ち、社会の荒波に揉まれ、優れた写真家の方々や尊敬できる考えを持つ人々と巡り会えた今の私にとって、あれほど威張って君臨していた「自分」は、すっかり角が取れて大人しくなった。と、思っていた。
しかし、改めてNoteの過去の記事等を読み返してみると、私はまだまだ「自分」にこだわっているのだなと苦笑する。

勿論、自分の価値観を大事にしたり、自分の心の声に耳を傾けてあげることも必要だ。
しかし、以前の私のように、自分の価値観を過大評価するがあまり、他人の価値観や気持ちを蔑ろにするような思考回路に陥ってしまうのはとても悲しいことだと思う。
2022年は、何かの判断を下す際に「自分」から一旦離れ、「自分」を頭上から客観的に見つめた上で、私を周囲で優しく見守ってくれている人の心の声にも耳を傾けてみたい。

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