見出し画像

「夢の中で会えるでしょう」 シーズン2. 第一回・ゲスト:曽我部恵一さん

*このテキストは、2020年8月8日に吉祥寺・キチムで行われた対談を書き起こしたものです。27000字強の長文テキストに加え、最後に当日行われた15分に渡るセッションの動画もあります。
(*Photo by 原田奈々 Special thanks to mille books 藤原康二)
*対談イベント「夢の中で会えるでしょう」シーズン1は、書籍化されています(詳しくは下記リンクへ)。シーズン2もゆくゆくは書籍化を目指しています。3年後くらいの長いスパンで気長にお待ち下さい。

画像1


シーズン2、ようやく始動

高野(以下、高):「夢の中で会えるでしょう」シーズン2を今日から始めます。

 まずはこのイベントについて。僕は1995年4月から1996年3月までの1年間、NHK教育テレビ (現・Eテレ)で放送していた『土曜ソリトン SIDE-B』(以下『ソリトン』)という番組で、司会をしていました。当時学生だった世代を中心に、熱心に見てくれた方がいて。たとえば、シンガーソングライターの星野源さんやナイツの塙宣之さんも、初めて会った時「ソリトン観てました」と挨拶してくれました。
 テーマにそって様々なゲストを迎えて進行するトーク番組で、ゆるく、時には深く、あまりテレビでは扱わないようなテーマを掘り下げていく内容でした。ざっくり「当時珍しかったサブカルをテーマにした番組」だったと言ってもいいかもしれません。

 それから20年経った2015年に、「『ソリトン』みたいな感じでゲストを招いて対談するイベントをやりませんか?」と吉祥寺にあるイベントスペース&カフェ「キチム」の原田奈々さんから提案いただいて、ここキチムを舞台に「夢の中で会えるでしょう」が始まりました。
 イベントは2015年から2017年にかけて計6回開催しました。第1回目のゲストは『ソリトン』で僕と一緒に司会をしていた緒川たまきさん、第2回がスチャダラパーのBoseくん、第3回が料理研究家のいがらしろみさん、第4回が片桐仁さん、第5回が髙橋幸宏さん、第6回がコトリンゴさん。後に対談は書籍化もされて、本にはボーナストラックとしてのんちゃんが参加してくれています。
 2020年から『夢の中で会えるでしょう』シーズン2を始めようと準備を進めていて、今年の2月22日にキチムで原田郁子さんとライブをやった時に、シーズン2の第1回を5月から始めることを発表していたのですが、その翌週にイベントの自粛要請があって、結局延期せざるを得なくなってしまいました。

 先週からまた東京都の感染者数が急増してしまったので、お客さんを入れるべきかどうか、直前まで悩みました。結局、今回は急遽無人での配信イベントとして開催することとなりました。画面越しですが、よろしくお願いします。


自粛期間中の出来事

高:それでは、お待ちかねシーズン2最初のゲストを紹介させてください。曽我部恵一さん。
曽我部(以下、曽):ご無沙汰してます。
高:実際に会うのは久しぶりですが、コロナ自粛期間中に、映像作家集団 GRAPHERS' GROUPと僕が企画した「新生音楽(シンライブ)MUSIC AT HOME」という配信イベントに、自宅で録画したライブ映像で参加してくれたんです。
曽:そうです。あれは4月中旬くらいでしたよね。
高:あの時期は、また今とも世の中の雰囲気がだいぶ違っていましたよね。お店はほとんどやっていなかった。
曽:あの頃を振り返ると、遠い過去のような感じがします。
高:本当にそうですね。まだ3、4ヶ月しか経っていないのに、随分と時が流れたような気がします。
曽:「あの頃、大変だったよね」という感じでもなく、むしろ今の方が大変なのかなと思います。あの時はまだ、頭の中はファンタジーのような感覚でした。
高:リアリティがなかったよね。曽我部くんの今のアーティスト写真が、夜の渋谷で撮影した写真なんだけど、人っ子ひとりいないもんね。

画像3


曽:そうそう、自粛期間の頃に渋谷に行くことがあって、その時に撮影したら偶然あの写真が撮れたんです。公園通りのパルコのあたりかな。見事に人がいなかったですね。
高:あんな渋谷の夜の景色は、平常時なら絶対に撮れないよね。
 僕が対談に曽我部くんを呼びたいと思ったのが、今年の活動を色々と聞いてみたかったからなんです。下北沢に「カレーの店・八月」をオープンしたんですよね、この時期に。いつ開店したんでしたっけ?
曽:4月10日です。だから、緊急事態宣言が出た数日後ですね。
高:その決断力は素晴らしい!
曽:最初は4月下旬か5月頭にオープンする予定だったんですよ。もう1軒、仲間と一緒にお店をずっとやっていまして。
高:同じ下北沢にあるCITY COUNTRY CITY(以下CCC)ですね。
曽:そこは、昼はカフェで夜はバー、レコードも売っているお店です。そっちのお店は急遽、一時的に閉めようということになったんです。そこで働いているスタッフみんなで早めにカレー屋さんに引っ越しして、しばらくはカレーをテイクアウトで売ることにシフトしようということになりました。CCCはその少し前から休業していたのですが、緊急事態宣言が出た日の朝9時頃にみんなで集まって、これからどうする?という相談をしました。
高:それは、一生忘れられない日ですね。
曽:とても天気がいい日でした。お店にターンテーブルがあるから、レコードを何枚か持っていったんですよ。ラモーンズのファーストと、加藤和彦さんの『あの頃、マリー・ローランサン』。それをかけながら、みんなとしゃべっていたら楽しい気持ちになって、「それじゃあ、すぐにカレー屋を始めよう」という話がまとまりました。でも、カレー屋にはまだお皿もスプーンも何もなかったから、CCCのものをみんなで持って引っ越ししました。それは、楽しかったですよ。
高:音楽が正気を保つ薬になってくれたというのは、あの時期ありましたよね。
曽:それはあったかもしれないですね。


音楽の目覚め

高:僕が曽我部くんに初めて会ったのは、1990年代の後半、ラジオの収録だったように記憶しているんだけど。
曽:高野さんのアルバムが出た時に、サニーデイ・サービスがやっていたラジオにゲストで来てくださったのが最初ですね。
高:人脈的には近いし、同じライブイベントに出演したことも何度かあったのに、実はゆっくり話をした記憶があまりないんですよね。せっかくの機会なので、今日は曽我部くんの人となりから色々と訊かせてもらおうかなと思っています。
 1971年、香川県出身。小さい頃は、どんな感じの子供でしたか。
曽:勉強ができるとか、スポーツができるとか一切なかったので、小学校を出るまでは結構しんどかったです。
高:友達はたくさんいたんですか。
曽:スポーツをやっているわけでもないので、あまりいなくて、2、3人くらいでした。インドアな友達で、一緒に漫画読んだりしていました。
高:漫画は描いてた?
曽:イラストみたいなものは描いていたけど、漫画を描いたりするようなこともなく、好きな藤子・A・不二雄先生の作品とかをただ読んでいました。地味でしたね。
高:ミュージシャンも、子供の頃にスポーツをやっていた人もいれば、インドアだった人もいるけど、僕の友達はインドア系だった人が多いです。
曽:勉強もスポーツもできない、取り柄のない子供でした。
高:音楽への目覚めはいつ頃でしたか。
曽:小学校の高学年になって、テレビで『ザ・ベストテン』のような音楽番組を見るようになって、歌謡曲に興味を持ったのが最初です。
高:その当時に流行っていたっていうと、どんな曲?
曽:よく覚えているのはYMOの「君に、胸キュン。」。それが小学6年生だったと思います。今聴いても、胸にきますね。小学生の頃にテレビで聞いた歌謡曲は、今でも記憶に残っています。
高:あの頃の歌謡曲は、一流のプロフェッショナルの仕事が多かったから、名曲もたくさんありますよね。歌い手もみんなキャラクターが立っていて。レコードを持っていなくても誰でも口ずさめる曲がたくさんあった。歌の力がとても強かった時代ですね。
曽:そういう歌謡曲を聞いていたけれど、ミュージシャンになりたいとか、音楽の仕事をしたいということはまだ全くなかったです。
高:ギターを始めたのはいつですか。
曽:中学生になってから、パンクを聞いたんです。中1か中2の頃。セックス・ピストルズを聞いて、何か楽器をやりたいなと思ってギターを始めました。
高:バンドはやってた?
曽:中2の時に友達とバンドもやりました。
高:バンド始めたの、割と早いですね。
曽:でも中2で少しだけバンドやって、それ以降はしばらくやってないです。東京に来るまでは。
高:大学で東京に出てきてから、本格的にバンドを始めたんですね。
曽:一緒にバンドやってたのは、上京していた高校時代から知っている地元の友達でした。別の大学に通っていたのですが、一緒にバンドやろうと始めたのがサニーデイ・サービスです。


『若者たち』は物議を醸すのが目的だった

ここから先は

23,610字 / 1画像

¥ 500

この「サポート」は、いわゆる「投げ銭」です。 高野寛のnoteや音楽を気に入ってくれた方、よろしければ。 沢山のサポート、いつもありがとうございます。