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坂本龍一ワールドツアーへの参加 - 再び、ギタリストとして(1994②)

*2/8 ヨーロッパツアー時の写真2枚追加しました。
*6/30 動画を追加しました。
*19.11.18 加筆修正しました。

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なおこの項は、以前「土曜ソリトンSide-B あれから20年」無料マガジンで公開した文に大幅加筆・訂正し、写真を加えたものです。

ちょうど、忌野清志郎さんの大編成のバンド、スクリーミング・レビューのコーラスメンバーとしてのリハーサルを終え、本番を控えていた1994年の9月13日、寝耳に水のオファーが飛び込んだ。

「坂本龍一ワールド・ツアーのギタリストをやりませんか?」

予想もしない展開は、様々な偶然が重なった結果だった。
坂本龍一さんは1994年にアルバム「Sweet Revenge」を発表し、2ヶ月近くかけて国内と香港・ヨーロッパのツアーを敢行することになっていた。ところが予定していたブラジル人ギタリストと連絡が取れなくなってしまい、ビザが発給されないことがリハーサルの直前に発覚、来日できないことが判明。このままではツアーができない、でも、代役は誰に

現場では緊急会議が開かれ様々な案が出された。するとミーティング中に、当時の僕の事務所に所属していたあるスタッフの口からこんな発言が飛び出したらしい。「高野寛はどうですか?」「Sweet Revenge」へのギター&ヴォーカルの参加と、6月に坂本さんのプロデュースで「夢の中で会えるでしょう」を制作したことが布石となって、僕をギタリストに起用するという唐突なアイデアが出たのだ。

その意表を突いた提案は他のスタッフや坂本さんにも好評を得て、高野寛ギタリスト説がにわかに現実味を帯びる。おりしも僕は「夢の中で会えるでしょう」10月末の発売を控えてプロモーションを始めようとしているところだったが、ワンマンライブやアルバムのレコーディングの予定はまだなく、坂本さんのツアーには東京の一本を除いて全て参加できることがわかった。

そして僕に正式にオファーが来たのが、リハーサル開始のちょうど1週間前。光栄すぎる提案は、あまりに急だった。「本当にやりたいのですが、今回は出来ません」と、一旦辞退したところ、翌日再度オファーを頂いた。デビューする前に一度凍結したギタリストになるという夢。あれから7年が過ぎ、突然降って湧いた大きすぎる仕事。武者震いするような、でも、やってみたい気持ちが高まってきた。そのためにはクリアしなければいけない問題がたくさんあった。

まず周囲の反対。レコード会社のスタッフは一様に「シングル発売を控えたアーティストが(たとえ坂本龍一さんであっても)誰かのバックバンドをやるなんてあり得ない」という反応だった(これは今になれば、当然のリアクションだと理解できる。レコード会社とアーティストとしての専属契約を交わすというのは、そういうことだ)。事務所内のスタッフにも当初、慎重論が根強くあった。

そんな中、幸宏さんに言われた一言は今でもはっきり憶えている。
「ワールドツアーできる機会なんて一生に何度もないはずだから、絶対やっておいたほうがいいよ。」
その言葉に背中を押されて、翌日から反対するスタッフを説得することに奔走した。

熱意にほだされ、当初反対意見だったレコード会社スタッフもツアーの参加を承諾してくれた。ただし、7枚目のソロアルバムを来年3月に発売することは死守するという条件付きで。つまり今年一杯は、ツアーに参加しながら作曲とレコーディングを続けることになる。でもどんなにスケジュールがタイトになったとしても、ワールドツアーに参加できる喜びが遥かに勝っていた。

スケジュールが重なっていて1本だけ東京公演(9/15 中野サンプラザ)に参加出来ない問題もあったが、佐橋佳幸さんがピンチヒッターを引き受けてくれることになった。(たった2日間リハーサルに参加しただけで見事に代役をこなしてくれた佐橋さんはプロ中のプロだ)

正式に参加が決まったのは、リハーサル開始のわずか3日ほど前だった。大急ぎで予習を始めた。ポップス~ボサノヴァから、ファンク~現代音楽まで及ぶ多様な音楽性の坂本さんの曲をマスターしなければいけない。ツアーのためにガットギターとワウペダルも新調した。嬉しさも束の間、怒涛の試練の日々が始まった。

*リハーサルスタジオの風景

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まず曲の複雑さに慣れる必要があった。坂本さんの曲に使われているコードは、一般的なコードネームでは書き表せない独特な響きを持っているものが多い。元来「コードネーム」はジャズから派生した軽音楽の概念だが、クラシック・現代音楽を経て独自の世界を描く坂本さんのハーモニーのセンスはその範疇からは大きく逸脱している。

原曲にはギターの入っていない曲も多く、ジャズやクラシックに関しては限られた知識とテクニックしかない自分のプレイをどうやってアンサンブルに溶け込ませるか、その解析とアイデアを練るために相当な時間を費やした。毎日リハーサルを終えてからも明け方まで予習・復習を続けた。1987年のビートニクスのツアーに参加した時と同じように。

「Sweet Revenge」は、ヒップホップとブラジル音楽の要素が取り入れられている曲も多い。ツアーのために買ったガットギターで、慣れないボサノヴァのバチーダ(弾き方のパターン)を練習するのはまるで外国語の習得のようだった。付け焼き刃のグルーヴが体に馴染んできたのはツアーも中盤に差し掛かった頃だったと思う。

バンドのメンバーは、人種も国籍も多様だった。全員の共通語は英語と音楽。海外のプレイヤーとツアーに出るのも、もちろん初めての経験だった。

ジャミロクワイを初め、数々の著名アーティストと共演しているイギリス人のバイオリニスト、エヴァートン・ネルソンと、NY生まれのボーカリスト、ヴィヴィアン・セサム。

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日本人DJ&キーボーディストの森俊彦(ajapai)と、ブラジル系ニューヨーカーのパーカッショニスト、バルティーニョ・アナスターショ。
(バルティーニョが持ってるのはビリンバウというブラジルの楽器)

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そしてデンマーク出身ニューヨーカーのベーシスト、クリス・ミン・ドーキーと僕。(クリスはイケメンなのにおどけた写真しかなかった(笑)左の写真は朝集合した時で洗髪後の髪型が変だ。僕の後ろで妙なポーズ取ってるのもクリス)

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*クリスはツアー当時は20代半ばくらい。エレキベースとウッドベースを同じように弾きこなせるベーシストは、当時まだ珍しかった。
↓ これがパブリック・イメージのクリス。

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日本国内のツアーではギタリストを務める傍ら、コンサート中盤に「夢の中で会えるでしょう」を歌わせてもらい、サンプリングされた歌や坂本さんと一緒に、「Sweet Revenge」収録の英語詞の曲も何曲か歌った。

*「夢の中で会えるでしょう」演奏シーン

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