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40年前、リクルートに入社する僕に親父が教えてくれた「ベンチャーで働く」ということ

亡くなった親父が行きつけだった銀座のバーに行った。このバーは、親父の勤め先の先輩(故人)が定年退職後に開いた店。今は奥様とお嬢さんで店を守っている。
その晩、奥様の話を聞いて今更ながら気づいたことがある。
40年、いや70年の時を経て、今ベンチャーで働く若者たちの参考になるかと思うので書くことにする。

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70年前 親父の就職

今から40年前。
僕が、当時まったく無名のリクルートに就職すると言った時、母親は反対だったが、親父は賛成してくれた。

親父は、反対するお袋を家に残して僕を連れ出し、バーのカウンターに並んで、初めて自分の就職の話を聞かせてくれた。

終戦が旧制中学4年の時。着の身着のまま引き揚げてきて金も無く、夢だった帝国大学への進学を断念。地元の旧制山口経済専門学校(現・山口大学経済学部)に進み、友人と上京して就職活動をした。
日本が戦争に負けたのは資源がないからだ。これからの日本を再建するには貿易立国だと思っていたから総合商社を受験した。
帰路、友人と東京駅で待ち合わせたが、その友人が最後にもう1社、製紙会社を訪問するから付き合えという。それで行ったのが山陽パルプ株式会社(現・日本製紙株式会社)。
山口に戻ると総合商社からも山陽パルプからも内定通知が届いた。
誘ってくれた友人は山陽パルプを落ちてしまった。
それでどうしようかと考えたとき、面接で接した山陽パルプの社長や社員に惹かれていることに気づいた。パルプとは何かも知らず、人で選んで山陽パルプに入社した。

戦艦と魚雷艇

僕が新卒で入社した時代、世の中にはベンチャーという言葉すらなかった。リクルートはまったく無名で、よくヤクルトと間違えられたし、マジメな顔で「漢字でどう書くの?」とよく聞かれた。急成長するリクルートは僕たち同期が200人入社して従業員数が1,000人を突破。だがまだまだベンチャースピリットに溢れていた。そんなリクルートに入社することについて、親父はこんな話をしてくれた。

俺がいる山陽パルプは今や業界大手の一角を占める大企業だ。軍艦で言えば乗組員が数千人いる戦艦。その例えで言ったら、お前が行くリクルートなんて乗組員数人だけの魚雷艇みたいなもんだ。
この違いがわかるか?

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お前が新兵として戦艦に乗る。艦長ははるか高いところにあるブリッジ(艦橋)の司令室にいるから、新兵は艦長と話すことも顔を見ることもない。乗組員は数千人いるが、無駄な者はいない。でかい船を動かすために、数千人で役割分担しているんだ。例えば新兵のお前の役割が手旗信号手だとする。船がどこに行って何をしようとしているかはわからんが、朝から晩まで懸命に手旗信号を降るんだ。お前がそれを間違えれば艦隊の隊列が乱れる。真剣にやらなければ近くにいる僚艦との連絡が途絶える。

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魚雷艇に乗った新兵は違う。
乗組員が数人しかいない船で手旗信号しかやらない奴はいらない。手旗もモールスも、甲板掃除も、食事の支度も、羅針盤を見ることも、海図を読むことも、航海日誌を書くことも、時には操舵輪を握ることも、たとえ新兵でも交代で率先してやらなければ船は進まない。結果的に新兵のお前も沢山の情報を持つことになる。
何より、艇長はすぐそばにいるし、普段の話は丸聞こえだし、会議にも参加する。船が何を目的に、どこに向かい、何をしようとしているかが新兵のお前にもわかる。

しばらくするとこんなことが起きるんだ。
「今回の艦隊全体の作戦の目的がこれで、自分の船が果たすべき役割がこれ。その海域に行き、この作戦をやるなら、こっちの海路を通り、こう戦った方がいい」と、情報を持っているからこそお前も意見を言える。艇長の顔も知っているし、日頃から会話しているし、他の乗組員ともお互いの性格も考え方も知っているから遠慮なく言えるんだ。
お前の意見が通り、船が進路を変えた時、お前はその責任の重さに気づく。
自分の判断で進路を変えてしまった。仲間の命を預かってしまった、と。
「意見が通る」とは、そういうことだ。

仲間の命を預かったお前は必死で仕事をするようになる。

3年経って船を降りる。
戦艦を降りたお前は「手旗信号のプロ」になっている。
魚雷艇を降りたお前は「船乗り」になっている。

お前が選んだ道はそういう道だ。
大変だぞ。だが3年がんばれば一人前の船乗りになれる。

自分が生き生き働けるのはリクルートの方だと思ったんだろう?
それなら入社してから生き生き働け。その姿を見せれば、お母さんは必ず、誰よりも味方になってくれる。

その後の僕を振り返れば、親父の言う通りだった。
親父が言っていたのは、リクルートで叩き込まれた目的意識と当事者意識であり、社員皆経営者主義、情報公開主義だった。
僕には魚雷艇が合っていた。

70年前 親父の就職 再び

今回訪ねた銀座のバーで奥様から、亡くなったご主人は山陽パルプの創業グループの1人だったと聞かされた。
親父とは10歳も違わないはずなのに?
調べてみて、初めて知って驚いた。
山陽パルプ株式会社の設立は1946年。
親父が就職したのが今から70年前、1950年頃のことだから、20歳の親父は、大手総合商社の内定を辞退して、設立して4〜5年のベンチャーに就職したんだ。
あの魚雷艇の話は、親父の実体験に基づいていたんだ。

親父とお袋は山陽パルプの経理課で知り合った職場結婚。
だから僕はずっと「管理部門に育てられた」と思っていた。
だが、両親が僕たち兄弟に、常に挑戦する方を選べ、可能性の広い方を選べ、やってみなくちゃわからない、転んでも立ち上がればいいと言い、僕たちが挑戦するかぎり惜しみなく支援してくれたのは、あの2人にベンチャースピリットがあったからだと、あらためて気づかされた。

僕が働き始めてから、2人ともリクルートの大ファンになってくれたのもうなづける。
何しろ、弟も、それぞれの伴侶もみんなリクルートというリクルート一家になったくらいだ(笑)。

親父の教え 仕事をする上で一番大切なこと

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この写真のボトルのタグ。NO.188は親父のボトルだ。
親父が亡くなってから15年。
バーの主となった奥様とお嬢さんがずっとキープしてくれている。

リクルートに入社後、人事に配属された僕は上司から
「お父さんは管理部門の大先輩だから、管理部門でやっていく上で一番大切なことは何かを聞いてこい」
と言われ、このバーで、このボトルを飲みながら親父に尋ねたことがある。
親父はグラスを見つめ、しばらく考えてからこう言った。

「いつかは分かってもらえるという誠意だ」

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