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徳川将軍の諜報組織「御庭番」とは

忍者や忍びというと、荒唐無稽な存在と私たちは考えるが、
スパイと言い方を変えるとどうだろう。スパイは現代でも
世界中で、諜報活動に暗躍していることを誰もが知っている。
忍者とは、江戸時代以前の日本で諜報活動に従事した者たちだ。
その中に、徳川将軍直属の「御庭番」がいた。

薩摩藩主を驚愕させた「蘇鉄問答」

「蘇鉄(そてつ)問答」と呼ばれるエピソードをご存じでしょうか。

江戸時代後期の徳川11代将軍家斉の時。江戸城に伺候してきた薩摩藩主・島津斉興に対して、将軍家斉が声をかけました。

「そのほうの国許の屋敷の庭に植えてある蘇鉄の木は、なかなか見事なものであるな」

「ははっ・・・?」

斉興は戸惑います。三田の上屋敷や桜田の中屋敷ならばともかく、将軍が江戸から遥かに遠い、薩摩のわが屋敷の庭の木を知っていることなど、あり得ないからでした。

怪訝な表情の斉興に、将軍家斉は笑みを浮かべて続けます。

「疑っておるようだな。ならば国許に帰り、最も大きな蘇鉄の根元を調べてみよ。余が検分した証として、葵の紋を彫った笄(こうがい、髪かきのこと)が差してあるはずじゃ」

下城後、斉興が至急家臣に調べさせると、果たして屋敷の蘇鉄の根元から、葵の紋が彫られた笄が確かに見つかったという報告がなされ、大いに驚いた、というものです。

もちろんこれは、将軍家斉本人が薩摩を訪問したわけではありません。将軍の密命を受けて薩摩に潜入した忍びが、その証拠として笄を差したものでした。

薩摩藩は俗に「薩摩飛脚は片飛脚」と謳われるほど、外部から侵入することが困難な、極めて警戒の厳しい藩として知られていました。

「薩摩飛脚は片飛脚」とは、飛脚を装って幕府が薩摩に送り込んだ隠密が、ことごとく殺されて帰ってこなかったので、片道の飛脚と呼ばれたことに由来します。

ところが将軍家斉は、直属の忍びを薩摩藩主の屋敷に潜入させることに成功し、「お前の国許のことは、余に筒抜けであるぞ」と、島津斉興に幕府の力を見せつけたのでした。

この将軍直属の忍びが「御庭番」と呼ばれる者たちです。

紀州から呼び寄せられた「薬込役」

忍者、忍びというと、伊賀者、甲賀者を連想する人も多いでしょう。確かに彼らは戦国時代、各大名家に雇われ、諜報活動に従事しました。

徳川家康も家臣の服部半蔵に命じて、伊賀者、甲賀者を幕府の鉄砲百人組の中に組み込み、彼らは通常は江戸城の警備にあたりながら、極秘の諜報活動にも従事したといわれます。

しかし平和な時代が続くと、伊賀者、甲賀者の末裔たちは諜報活動から遠ざかり、江戸城警備の専任となっていきました。

そんな中、御三家の紀州徳川家より入って将軍となったのが8代将軍吉宗です。

いわば「よそ者」から幕府という巨大組織のリーダーになった吉宗は、組織内から上がって来る情報とは別に、内外の正確な情報を独自に集めるべく、直属の諜報組織を必要としました。

そこで、紀州藩主時代に情報収集にあたらせていた「薬込役(鉄砲の弾込め役)」と呼ばれる者たちを抜擢し、幕臣に組み込んで組織したのが「御庭番」の17家だったのです(後に22家)。

時代劇の『暴れん坊将軍』をご存じの方は、ドラマの中で御庭番が常に吉宗を護衛していたことを記憶されているかもしれません。またコミックの『るろうに剣心』にも、御庭番衆がキャラクターとして登場していました。

御庭番の者たちは、普段は江戸城天守台近辺や御庭の警備にあたりました。そして人気のない場所で将軍の御側用人から、あるいは大奥と中奥の間にある場所で、将軍本人から障子越しに密命を受けると、そのまま役宅には帰らずに市中の呉服店に赴き、あらかじめ用意していた衣服に着替え、全く別の姿になって任地に急行しました。

こうした市中の呉服店が実は御庭番の者たちの連絡所を兼ねており、一説に白木屋越後屋といった有名呉服店がそうであったといいますから、興味深い話です。

菓子店との意外なつながり

御庭番は諸藩や幕府の代官所、老中をはじめとする幕府役人の行状、世間の風聞などを調査したといわれます。

時代考証家で武術・忍術にも造詣の深い、故名和弓雄氏から、次のような話を伺ったことがあります。

「御庭番は各藩に潜入し、城の構え、町のつくり、内情をこと細かく探りました。たとえば密かに距離を測る際、一定の歩幅で歩くと、見る人が見れば計測していることがわかってしまいます。

そこでたとえば豆を食べながら一定距離に皮を落とし、それによって何間何町(なんけんなんちょう)と計りました。彼らの実測による絵図は、現存するものを見ても実に綿密に調べてあり、もし幕府が大名と戦うことになっても、この絵図があれば容易に攻め込むことができただろうと思えるほどのものです。

また彼らは一人で行動をせず、任務を監視する者も含めて常に複数で行動をしました。潜入調査をする際、少なからぬ資金を幕府より預かるので、逃亡を防ぐ意味もあったのでしょう。

そして意外なことに、菓子店も諜報組織とつながりが深かったことがわかっています。老中水野忠邦が使った忍びの元締めは、老舗の菓子舗(現在も続いています)の主人であったという三田村鳶魚(みたむらえんぎょ、江戸文化研究家)の記述があります。

また、実際に老舗の菓子店に、古い忍び道具が伝わっているケースもありました。

有名菓子店となれば、定期的に城に菓子を納めますし、また四国特産の和三盆糖(わさんぼんとう)を入手するために全国にまたがる組織があったので、御庭番をはじめ忍びが活動する際に、大いに利用できるものであったのでしょう」

こうした呉服店や菓子舗と御庭番のつながりなども、非常に興味深いものではないでしょうか。

なお蘇鉄問答に登場した島津斉興の息子が幕末の名君・島津斉彬(なりあきら)。そして斉彬が「お庭方」に抜擢し、情報収集にあたらせたのが西郷吉之助こと西郷隆盛です。

蘇鉄問答と薩摩藩のお庭方・西郷が結びつくと想像するのは飛躍かもしれませんが、まったく無関係ではないのかもしれません。

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