見出し画像

戦国時代カレンダー 今日は何の日? 【9月13日~19日】


戦国時代の今日の日付にはどんなことがあったのか? 1週間ごとにお伝えします。ぜひ「ああ、今日はそんなことがあった日なんだな」と思いを馳せてみてください。毎週日曜日に更新する予定です。
なお、日付はすべて旧暦ですので、現在とは約1ヵ月のズレがあります。31日はありません。


9月13日 九州の関ヶ原・石垣原の戦い

慶長5年(1600)9月13日(旧暦)、石垣原(いしがきばる)の戦い。西軍に与(くみ)して大友(おおとも)家再興を図る大友義統(よしむね、宗麟の息子)が、豊後(現、大分県)杵築(きつき)城に攻め寄せ、中津城を出陣した黒田官兵衛(くろだかんべえ)率いる軍勢と石垣原(現、別府市)で衝突します。戦いは勇将吉弘統幸(よしひろむねゆき)の采配により大友軍が一時優勢となりますが、逆襲に転じた黒田軍が夕刻には勝利を収めました。官兵衛は以後も、西軍方の諸城を攻略していきます。

画像1


9月14日 関ヶ原前哨戦・杭瀬川の戦い

慶長5年(1600)9月14日(旧暦)、小早川秀秋(こばやかわひであき)が美濃(現、岐阜県)関ヶ原の松尾山に着陣。東西いずれに味方するのか、旗幟(きし)は不鮮明です。一方、徳川家康の美濃赤坂着陣で動揺する西軍の士気を鼓舞(こぶ)すべく、石田三成(いしだみつなり)の重臣・嶋(島)左近(しまさこん)宇喜多秀家(うきたひでいえ)の重臣・明石掃部(あかしかもん)が大垣城を出撃、杭瀬川(くいせがわ)の戦いで東軍の中村一栄(なかむらかずしげ)、有馬豊氏(ありまとようじ)勢を破りました。

画像2


9月15日 関ヶ原合戦・天下分け目の戦い

慶長5年(1600)9月15日(旧暦)、関ヶ原合戦。美濃関ヶ原において徳川家康を主将とする東軍と、石田三成を中心とする西軍が激突しました。東軍背後に位置する南宮山(なんぐうさん)の毛利秀元(もうりひでもと)吉川広家(きっかわひろいえ)らの軍勢は動かず、西軍は小早川秀秋らの寝返りで崩れます。大谷吉継(おおたによしつぐ)は奮戦の末に自刃、島津義弘(しまづよしひろ)は壮絶な敵中突破を図りました。なお同日、毛利元康(もうりもとやす)立花宗茂(たちばなむねしげ)ら西軍の精鋭が近江(現、滋賀県)大津城を攻略しますが、関ヶ原合戦には間に合いませんでした。

画像3


9月16日 信長、細川忠興を指導する通達

天正9年(1581)9月16日(旧暦)、織田信長細川忠興(ほそかわただおき)に通達。丹後(現、京都府北部)の船手(ふなて)衆を毛利軍の拠点である伯耆(現、鳥取県西部)方面に出動させることを了承するとともに、「粉骨して働く家臣をよくよく見極めることが大切である」と伝えました。若手武将を教育する信長の姿が垣間見えます。

画像4


9月17日 伊予の関ヶ原・三津浜の戦い

慶長5年(1600)9月17日(旧暦)、伊予(現、愛媛県)三津浜(みつはま)の戦い(刈屋畑〈かりやばたけ〉の戦いとも)。毛利輝元(てるもと)配下の毛利軍は、御家再興を企てる河野(こうの)勢や村上水軍を従えて伊予に侵攻、東軍方の松山城(当時は松前〈まさき〉城)の開城を迫ります。城主の加藤嘉明(かとうよしあき)は関ヶ原出陣中で不在でしたが、家臣の佃十成(つくだかずなり)の策で、従うと見せて敵を油断させ、夜襲をかけて撃退しました。

画像5


9月18日 佐和山城が落城

慶長5年(1600)9月18日(旧暦)、近江佐和山(さわやま)城が落城。前日より東軍は小早川秀秋脇坂安治(わきざかやすはる)ら、関ヶ原での寝返り武将らを中心に佐和山城に攻め寄せていました。城の主将は石田三成の父・正継(まさつぐ)で、正継は少ない兵力で奮戦の末、己の命と引き換えに城兵を救うことを徳川家康に認めさせます。ところが停戦すると東軍が約束を破って城内に乱入、正継は「内府も念の入ったことよ」と呆れながら一族とともに自刃しました。

画像6


9月19日 島津義弘・忠恒父子、泗川倭城に布陣

慶長3年(1598)9月19日(旧暦)、島津義弘・忠恒(ただつね)父子は2,000で朝鮮半島の泗川倭(しせんわ)城に布陣。同日、明(みん)の大軍が晋州(しんしゅう)に進出し、朝鮮との連合軍で日本側が守る順天(じゅんてん)泗川蔚山(うるさん)に攻勢をかけようとしていました。島津軍は一説に10万にものぼる大軍を迎え撃つことになります。敵から「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と怖れられることになる泗川の戦いの始まりでした。

画像7


【戦国武将生没日】(毎週更新)

9月

9月1日・大内義隆没(1551年・大寧寺の変)
9月1日・冷泉隆豊没(1551年・大寧寺の変)
9月1日・浅井長政没(1573年・小谷城の戦い)
9月1日・浅井政元没(1573年・小谷城の戦い)
9月1日・赤尾清綱没(1573年・小谷城の戦い)
9月3日・浅野長晟没(1632年)
9月6日・戸川秀安没(1597年)
9月8日・朝倉宗滴没(1555年)
9月9日・滝川一益没(1586年)
9月10日・武田信繁没(1561年・第四次川中島合戦)
9月10日・諸角虎定没(1561年・第四次川中島合戦)
9月10日・山本勘助没(1561年・第四次川中島合戦)
9月10日・初鹿野忠次没(1561年・第四次川中島合戦)
9月10日・磯野員昌没(1590年)
9月11日・竹中半兵衛誕生(1544年)
9月11日・立花道雪没(1585年)
9月11日・坂崎直盛没(1616年・千姫事件により切腹)
9月12日・加藤嘉明没(1631年)
9月13日・吉弘統幸没(1600年・関ヶ原合戦・石垣原の戦い)
9月14日・野一色助義(1600年・関ヶ原前哨戦・杭瀬川の戦い)
9月14日・十時連貞没(1644年)
9月15日・長続連没(1577年・七尾城籠城戦)
9月15日・松平信康没(1579年・家康の命により切腹)
9月15日・大久保忠世没(1594年)
9月15日・大谷吉継没(1600年・関ヶ原合戦・本戦)
9月15日・嶋左近没(1600年・関ヶ原合戦・本戦)
9月15日・平塚為広没(1600年・関ヶ原合戦・本戦)
9月15日・戸田勝成没(1600年・関ヶ原合戦・本戦)
9月15日・蒲生頼郷没(1600年・関ヶ原合戦・本戦)
9月15日・大場土佐没(1600年・関ヶ原合戦・本戦)
9月15日・河尻秀長没(1600年・関ヶ原合戦・本戦)
9月15日・奥平貞治没(1600年・関ヶ原合戦・本戦)
9月15日・長寿院盛淳没(1600年・関ヶ原合戦・本戦)
9月15日・島津豊久没(1600年・関ヶ原合戦・烏頭坂の戦い)
9月15日・九鬼守隆没(1632年)
9月16日・本願寺教如誕生(1558年)
9月16日・岡本良勝没(1600年・関ヶ原合戦・桑名城内切腹)
9月17日・熊谷直盛没(1600年・関ヶ原合戦・大垣城内謀殺)
9月17日・垣見一直没(1600年・関ヶ原合戦・大垣城内謀殺)
9月17日・木村由信没(1600年・関ヶ原合戦・大垣城内謀殺)
9月17日・石田正継没(1600年・関ヶ原合戦・佐和山城の戦い)
9月17日・石田正澄没(1600年・関ヶ原合戦・佐和山城の戦い)
9月17日・宇多頼忠没(1600年・関ヶ原合戦・佐和山城の戦い)
9月17日・草刈志摩没(1600年・関ヶ原合戦・上山城の戦い)
9月19日・森可成没(1570年・宇佐山城の戦い)
9月19日・織田信治没(1570年・宇佐山城の戦い)
9月19日・青地茂綱没(1570年・宇佐山城の戦い)
9月20日・九戸政実没(1591年・九戸の乱後、豊臣軍により処刑)
9月20日・九戸実親没(1591年・九戸の乱後、豊臣軍により処刑)
9月20日・山内一豊没(1605年)
9月20日・丹羽長秀誕生(1535年)
9月21日・吉川広家没(1625年)
9月23日・島津忠良(日新斎)誕生(1492年)
9月23日・乃美宗勝没(1592年)
9月24日・朝倉義景誕生(1533年)
9月25日・蜂屋頼隆没(1589年)
9月26日・秋月種実没(1596年)
9月28日・朝倉景恒没(1570年)
9月28日・福原長堯没(1600年・関ヶ原合戦・伊勢朝熊山で切腹)
9月28日・溝口秀勝没(1610年)
9月29日・太田資康没(1513年・北条早雲に敗死とも主君上杉氏による謀殺とも)
9月29日・織田信広没(1574年・伊勢長島一向一揆攻め)
9月29日・上泉泰綱没(1600年・関ヶ原合戦・長谷堂城の戦い)
9月29日・保科正直没(1601年)
9月29日・有馬豊氏没(1642年)

いただいたサポートは参考資料の購入、取材費にあて、少しでも心に残る記事をお届けできるよう、努力したいと思います。