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太平洋戦争の「たられば」

もしあの時ああしていたら、こうなっていれば・・・。
日常生活でも時折語られる「たられば」は、
歴史の世界では語っても意味がないとされる。
しかし今回はあえて太平洋戦争で語ってみよう。

私たちは「たられば」が大好き

「歴史にifは禁物」といいます。もしあの時ああしてい「たら」、こうしてい「れば」を語るのは、歴史に限らず、普段の私たちの生活においても、あまり建設的な姿勢とはいえないかもしれません。

もちろん真摯に失敗を見直すことで、次の成功につなげる反省としては、必ずしも無意味とばかりはいえないでしょう。なんらかの「経験則」は得られるでしょうから。

ただ歴史の場合は直接的な経験則になることは少なく、ややもすれば繰り言になってしまいがちです。

しかし、です。それはわかっていても、私たちは「たられば」を語るのが大好きです

歴史上において、たとえば「もし武田信玄が急死せず、織田信長と対決していたら」「関ヶ原合戦で小早川秀秋が裏切っていなかったら」「坂本龍馬が暗殺されず明治に生きていれば」・・・などなど、わくわくする話は枚挙にいとまがないでしょう。

そんな中で、今回紹介してみたいのは、太平洋戦争です。

かつて荒巻義雄氏の『紺碧の艦隊』をはじめとする、太平洋戦争を舞台とした架空戦記と呼ばれるノベルスが流行した時期がありました。また小説ではなく、戦史研究者が、日本がアメリカに勝てる戦略戦術を探った書籍も存在します。

とはいえ、日本とアメリカでは国力の差があまりに大きく、まともに戦って勝ち目のないことは、後世の私たちだけでなく、当時の日本の指導者たちも痛いほどわかっていました。だからこそぎりぎりまで交渉を続け、戦争を回避しようとしていたわけです。それでも戦争に踏み切ったのはなぜか。それについてはまた、テーマを改めて考えたいと思います。

今回ご紹介する「たられば」は、戦史に通じた複数の方の意見をもとにしたもので、荒唐無稽な話ではありませんし、マニアックな戦術論でもありません。なにより日本が勝つのではなく、早期講和を実現させるためのものです。以下、2つご紹介します。

もし真珠湾攻撃で石油タンクを壊していたら

昭和16年(1941)12月8日、日本海軍の機動部隊はハワイの真珠湾を奇襲し、アメリカ太平洋艦隊の主力を壊滅させたことはよく知られます。

6隻の空母から発進した攻撃隊は時間差をつけて2次に及び、真珠湾に碇泊する戦艦群を大破炎上させました。空母は出払っていたため攻撃できませんでしたが、当時の主力艦はあくまで戦艦ですので、日本軍の作戦目的は達成できたはずでした。

実際、戦艦群を失ったアメリカの反撃は、翌年4月に空母1隻で日本本土に空襲をしかける(ドーリットル空襲)のが関の山で、昭和17年(1942)の秋頃までは守勢に立たされることになります。

しかし、ここで「たられば」です。アメリカ太平洋艦隊司令長官を務めたニミッツ提督は、その回顧録でこう語っているのです。

「真珠湾の石油タンクを破壊されていたら、アメリカ艦隊は、半年は動けなかった」

つまり、真珠湾攻撃で艦船のみを攻撃するのではなく、基地の石油タンクや海軍工廠も破壊していたら、というものです。

ハワイの真珠湾が機能しなくなれば、戦艦を失ったアメリカ艦隊は西海岸に留まらざるを得ず、補給の問題から大胆な作戦はできなくなります。当然ながらドーリットルによる日本空襲もなかったでしょうし、ミッドウェー作戦を日本が行う必要もなかったでしょう。

太平洋で戦える艦隊がない以上、アメリカは日本の攻撃に備えて、広大な西海岸に陸軍の兵を配置せざるを得なくなります。そうなると、アメリカはドイツの攻勢に苦しむイギリスの要請に応えて、ヨーロッパに派兵する余裕を失う可能性が高くなるのです。

アメリカはイギリスに多額の戦債をつぎ込んでおり、イギリスが敗れることは何としても避けたいところでした。もともとルーズベルト大統領は、アメリカ国民を戦地に送らないことを公約して当選しています。従ってイギリスを救うために大戦に参加しようとすれば、国民から公約違反を問われるはずですが、日本が開戦の口火を切ったことで大戦に参加する口実が得られ、いわば「裏口」からヨーロッパ戦線に兵を送れることになりました

ところが、肝心のヨーロッパに派兵できないとなれば、ルーズベルトの目論見は崩れ、日本と正面から戦う意味はあまりなくなります。つまり、真珠湾攻撃で日本軍が石油タンクや海軍工廠を破壊していれば、そのまま早期講和することもできたかもしれないのです。

そのためには日本の攻撃隊が2次に留まらず、3次を繰り出して基地を徹底的に破壊していれば、が条件でした。

実は、随分以前のことですが、第3次攻撃の可能性について、真珠湾から生還した空母飛龍艦攻(艦上攻撃機)隊分隊長の松村平太(まつむらひらた)少佐に、若かった私はインタビューの中でお尋ねしたことがあります。松村さんは、即座にこう応えられました。

「あの時、第3次攻撃が十分にできるだけの爆弾や魚雷は、もう残ってなかったよ」

ミッドウェー海戦に勝っていれば

2つ目の「たられば」です。

太平洋戦争の分水嶺になったとされるのが、開戦から半年後、昭和17年6月5日から7日のミッドウェー海戦における日本軍の敗北です。

連合艦隊司令長官の山本五十六は、ミッドウェーに勝つことでアメリカとの講和交渉に入るつもりではなかったかという説があり、私もタイミング的にそうだろうと思っています。

しかし実際は、ミッドウェー海域でアメリカ機動部隊に不意をつかれ、真珠湾以来連戦連勝だった日本の機動部隊は4隻の空母を失う大敗を喫し、以後、攻守逆転してしまいます。

実はこの時、山本長官自らが乗る戦艦大和以下の大艦隊が、機動部隊のはるか後方にいました。なぜはるか後方だったのかについては、長くなるのでまた別の機会に譲ります。

日本軍が計画したミッドウェー作戦は、目的が2つありました。ひとつはミッドウェー島の占領。実は作戦の1ヵ月半前、アメリカの空母から発進した爆撃機にまんまと日本本土が空爆されるドーリットル空襲があり、軍は衝撃を受けます。そこで敵の動きをいち早く察知するための前線基地として、北太平洋上のミッドウェー島の占領が計画されました。

もうひとつの目的は、ミッドウェー島攻撃につられて現われるであろうアメリカ軍空母の撃滅です。当時はパイロットの技量、戦闘機の性能において日本はアメリカを凌駕しており、空母決戦になれば、勝機は日本にありました。

しかし、作戦目的が2つというのは、古来「二兎を追う者は一兎をも得ず」といわれる通り、うまくいくものではありません。

この時も、日本の機動部隊がミッドウェー島を攻撃中に敵機動部隊が発見され、陸用爆弾から魚雷へと攻撃機を換装しているうちに敵の先制攻撃を受けて、一瞬で4隻の空母のうち3隻が大炎上してしまいました。

そこで「たられば」です。この時、山本長官率いる戦艦大和以下の大艦隊が機動部隊と行動をともにし、ミッドウェー島の攻撃は大和をはじめとする戦艦群が艦砲射撃を浴びせていれば、島からの反撃は無力化することができたでしょう。そして日本の機動部隊は、敵機動部隊にターゲットをしぼり、準備をして出現を待ち構えていればよかったのです。

そうすればミッドウェー海戦の敗北はまずあり得ませんし、ミッドウェー島占領も可能になったはずでした。

アメリカの作家ハーマン・ウォークは『戦争と追憶』に「日本がミッドウェー海戦に勝ったらドローゲームになる可能性があった」と記しています。具体的には、

「ミッドウェー島を失えば、アメリカは陸軍を西海岸に集めなければならない。その結果、北アフリカ戦線でイギリスを助けることができず、ドイツのロンメル将軍がスエズを落とす。スエズが落ちるとドイツは石油地帯を手に入れ、イギリスの降伏は時間の問題となる。すでにフランスは降伏しているので、アメリカだけが戦うわけにはいかなくなるだろう」

というものです。ドイツの勝利、イギリスの降伏が実現するかはともかく、ミッドウェーで米機動部隊が壊滅していたら、太平洋上で満足に戦えるアメリカ艦隊は存在しなくなり、まさに講和の好機は訪れたはずです。日本にすれば千載一遇のチャンスを逃した瞬間だったのかもしれません。あくまで「たられば」ですが。

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