個人的な発達障害の捉え方

【発達障害ってつまり?】

僕が診療している子どもたちの半分くらいが発達障害です。「君は発達障害だね」と言いながら診療している一方で、じゃあ発達障害って何よと聞かれたときに、答えに窮してしまうものでもあります。

もちろん医学的な診断基準はありますが、そういうことではない。
「要するに、君(発達特性で)困ってるんやな」ということではないかと思います。
でも、その一方で「甘えてたらあかんで」とも思っています。


【「君、困ってるんやな」視点】

僕が児童精神科を専門にして最初についた上司が、ひたすら発達障害を診る医師でした(かの有名な(?)宮尾益知先生です)。
彼の外来に付いて、浴びるように発達障害の子を見ました。最初は、なんか叫んだりするし、こだわり強いし、パニックになるし、大変だなーとか思って眺めていました。
そのうち自分が診療するようになり、そういう子たちと触れ合っていくうちに、「発達障害の子」と「普通の子」(定型発達の子)の境目が分からなくなってきました。

発達障害の子は彼らなりの見方で世界を解釈をしています。
彼らの気持ちになって物事を見てみると、「あーなるほど。そう感じたんなら、そこ怒るよね(感じ方は僕らとは違うけど)」と思うことが増えてきました。
前提の置き方や物事に対する感じ方が違うだけで、彼らの中では非常に合理的な行動選択になっているのだと。

それに、“発達障害”の人は社会の中にたくさんいます。
医者にだってたくさんいるし、研究者や起業家にもいっぱいいる。

見ようによっては発達障害である、そういう人たちが世の中にたくさんいて、っていうか、むしろそういう人たちが世の中を引っ張っててっていうのを考えると、発達障害かどうかって究極的にはどっちでもいいかなって思うんですよね。

もちろん、発達障害の子は困ることが多いから、なにかしらのアドバイスもしてあげたい。でも、それが発達障害だからかって言われると、、、別に発達障害じゃない子どもサポートしたいと思いますよね。

ただ発達障害があると特に困りやすいし、それに対して僕の専門知識が役に立つので、より張り切って助けたいとは思っています。


【「甘えてたらあかんで」視点】

一方で、発達障害の子に僕が声を大にして言いたいのは「発達障害だからって甘えるな」ということです。

ケースにもよりますが、ある程度能力があってコミュニケーションツールも持ってる思春期・青年期の男子って、障害について告知すると3割ぐらいは甘えに走るんですよ。
「だって、もう、俺は発達障害だからしょうがないよね」みたいな。
そうするとなんでも発達障害のせいにして、自分で頑張ったり、自分の環境を良くすることを放棄したりします。

もうちょっと丁寧に言うと、甘えるという段階はあるのだと思います。子ども自身が、自分の発達特性を理解・受容するのに、さまざまな段階があるとしたら、その中に発達障害に甘えるとか、自信をなくすという段階はある。

あるいは、幼い段階で自分のことを幼いなりに理解することになったら、「発達障害だから仕方ない」という風に、うまくできない自分を納得させようとする時期もあるかもしれない。

だけどそこで終わってほしくはない。

なので、発達段階的にも成熟してきた子や、周囲の環境が整っている子、フォローしてくれる人がいる子には、「こらこら、甘えるなよ」って言います。
それはつまり「君には、やっていく力があるやんか」「君には君の持ち味があるやん」と伝える、ということです。

確かに、周囲に理解はしてもらったほうがいいし、サポートもしてもらったほうがいい。でも、それにあぐらをかいた瞬間に、結局、障害者っていう枠から抜けられなくなる。むしろ自分からその枠に入ることになります。

他の障害でもそうかもしれませんが、サポートがある前提で、周りと同じことをするために、自分がどうやって自分を世話するか、マネジメントするかを考える必要がある。
それが一人前の発達障害者としてのプライドじゃないか。それができることで、彼らは自分で自分の人生をより良くできると思うんですよね。


僕は年齢が上がれば上がるほど、シビアというか正直に言います。腫れ物扱いってしんどいですし、そもそもそれって僕と彼らの関係が対等じゃない。

発達特性があるのを前提で、こちらもその特性を当然受け入れた上で話をするっていう意味でも、空気読めない子には、「おまえ空気読めてへんぞ」って言ったらいいと思うんですよ。

空気読めないけど、でも君はできるぞ、僕もそれを応援してるぞ、というメッセージを伝えたい。

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