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悦びと腐敗のポストキャピタリズム|「人類堆肥化計画」を読んで

「人類堆肥化計画」とは、これまた大変な思想を掲げてくれたものである。今年の後半で僕自身がいろいろと悶々としていたようなことに対して全てばっさりと切り捨ててくれるような示唆をこの本からはふんだんに与えてもらったような気がする。


「人類堆肥化計画」と聞けば、わかる人なら「新世紀エヴァンゲリオン」を思い浮かべてしまうだろう。本書でも、あとがきでまさにそのことに触れられているが、「新世紀エヴァンゲリオン」では「人類補完計画」なる野望が人類の最終着地地点として提示され、他人との境界線が生まれたことで傷つけ合うようになった人類に対して、境界を溶かし合い、人類が一つの共同体として生きていくことこそ新たな時代の幕開けであって、そのために一度人類を全て魂とそれ以外の肉体としての器であるLCLに分離する必要があるという提唱がなされる。

本タイトルはこれに対するアンチテーゼであるわけだが、「新世紀エヴァンゲリオン」においては(アニメ版の最後で)人類が一つになることに対して「傷つけあってもいいから、僕はやっぱり違うと思う」と主人公シンジが悟り、サードインパクト(人類補完計画のための最終ステップ)を途中で終わらせる。僕は「新世紀エヴァンゲリオン」が大好きだが、この「境界の再認識と承認」はとても重要なことであると思っているし、だからこそ、「人類堆肥化計画」という思想についても非常に興味を持ってしまったわけである。

このままでは逸脱し続けるので話を戻すと、「人類堆肥化計画」とはつまり、資本主義的な「清貧の思想」から脱却し、生命に育まれ、生命を育むものとして「堆肥化」すべきだという話だ(と僕は感じた)。ここからは僕自身がこの本を通じてピンときた部分をトピックスっぽく切り取ってご紹介したいと思う(ただし、読み終えたばかりの僕が勢いで書くことなので、いろいろと理解にズレがあるかもしれないが、あくまで僕の勝手な受け取り方として読んでもらえると幸いである)。


里山の「神秘化」に対する抵抗

まず、これは本書の重要な指針として最初に紹介しておきたいのだが、東さんは里山生活を送るようになったきっかけを以下のように書いている。

溢れているのは人間ばかりなうえ、何もかもが間接的で、その分だけ悦びも希釈された。わたしが渇望したのは〈生きることを生きること〉であり、自分の生を完膚なきまでに味わい尽くすことである。

一般的に言えば、無欲・禁欲と結びつけられることの多い里山での農耕生活は、ある意味で都会からは隠居のごとく「神秘化」されている。しかし、そこでは、都会では体験できない生物・自然とのダイレクトな交わり、具体的には破壊・殺戮が許容されていて、それは里山で暮らすことの「悦び」であると東さんは説く。さらにはこんな表現も出てくる。

里山は、超俗などでは断じてなく、むしろ「チョー俗」だというべきである。

里山での生活は、自らが手塩にかけて育てた生物(植物・動物)を自らの手で殺めて自らの糧とする行為そのものであって、それは欲深い行為に他ならないというのである。これが「堆肥化」においては、とても大事な考え方である。


生きることは「堕落」である

堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない

これは坂口安吾による戦後の日本再生をうたった「堕落論」からの引用であるが、本書においてもこの「堕落論」的な思想が往往にして引き継がれている。

そもそも、生きるということは、数多くの「死」によって成り立っている。(解剖学者・養老孟司もよく言っていることだが)綺麗事ばかりが取りざたされる今の世の中においては、あまりに多くの「死」がないものとされている。

しかし、実際には「生はいつも、生の解体がもたらす産物」である。それを受け入れた上で、綺麗事だけでない部分とともに人は生きていく。欲を認め、堕落(=腐敗)することこそヒトが生きる道なのだ。

一般的には、腐敗し、堕落することはよくないことだと思われる。しかし、堕落を避けることは「清廉でつまらない社会を再生産するだけ」であると東さんは考える。

利己的で貪欲であること自体は多く土壌生物にも共通していることなのであって、堆肥化にとってむしろ歓迎すべき事態なのだ。


腐敗の先にある真の悦び

さらに、欲深い「堕落(腐敗)」の先にあるのが、ともに育み合う「堆肥」である。それはまさに「甘美な誘惑」そのものである。

ジョルジュ・バタイユは「エロチシズム」において、生まれて死にゆく非連続的な人間における非連続性の侵犯こそが「エロチシズム」であると表現しているが、これに非常に近しい概念だ。

そう考えると、本質的な「悦び」は「腐敗」の先にある「堆肥」の中にこそあるのであって、一般的に考えうる政治的汚職などの「腐敗」など、大した腐敗ではない。

世の権力者たちのニヤついた顔を見るとき、よくもまあその程度の腐敗で悦に入ることができるものだと思う。中途半端な腐敗でいい気にならないでほしいものだ。堆肥になってこその腐敗ではないか。
生物の生育のために死んでいった生物の存在を不当にも黙殺する。そんなことでは育む悦びの半分しか摂取できない。

本書でもこのような記載があるが、もちろん殺すことは悪いことだと断言した上で、「殺す他ない生は、単に生のままで輝かしい悪事となる」。それは本物の「悦び」に他ならないだろう。


土の絶対性と「私たち」の存在

ただし「堆肥」を考える上で、忘れてはならないことがある。土の絶対性と「私たち」の存在である。私たちが「堕落」できるのは、そこに土があるからであって、他者に頼るのではなく、土に立脚することを選ぶことこそが「堆肥」なのであるが、土というのは、それ自体がこの宇宙同様に、あらゆる価値を否定してもそこに依って立つほかない絶対的な「グラウンド」なのだ。

本書でも引用されているがフランスの庭師・ジル・クレマンの「動いている庭」には「生はノスタルジーを寄せつけない」という表現がある。土という絶対性、生と死という絶対性は、「憐憫」とは無関係に存在しているということも忘れてはならないだろう。いかなる感情にも左右されない、それとは無関係に存在する土の絶対性は重大だ。

また、その上で、もう一つの「私たち」の存在について。本書の中で以下のような表現が出てくるのだが、僕自身がこの秋以降ずっと考えていた「なぜ、私たちなのだろう」という問いに対する一つの答えだと直感した。

堆肥づくりの主語は、いつも複数形でしかありえない。

腐敗によって育み、育まれる「堆肥」という行為においては、他者の存在が不可欠であって、ゆえに冒頭でも紹介した「人類補完計画」の先に本当の喜びがないと考えられるわけであるが、他者を他者として、理解し合えないものだと認めた上で、欲望のためにそれぞれが癒着する、それこそが「堆肥」のミソなのであって、これからの私たちが考えるべき関係性の在り方なのだろう。しかもそれは、土の「絶対性」があるがゆえなのである。


与那国島で馬と暮らす河田桟さんの「くらやみに、馬といる」という本の最後に以下のような表現が出てくるのだが、それにも近い関係性を感じた。

あかるい場所になじめなかったり、異種の生き物に近しさを感じる人は、きっと私のほかにもたくさんいるでしょう。あなたと私のくらやみは違うものですけれど、でも、境界のないくらやみのこ、もしかしたら、どこかでひそやかな小道がつながっているかもしれません。

昨今取りざたされる「多様性」といううわべだけの言葉からは理解できないであろう他者との究極的な関係性の本質がここにあって、だからこそ、悦びのために育みあえる「堆肥」という行為には、あらゆるものを綺麗事で片付けてしまう資本主義からの脱却も視野に、これからの僕たちの生きる重大な指針が隠されているのは明らかではないだろうか。



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