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どこまでが内で、どこからが外なのか分からない曖昧な世界

日本建築ってやっぱり内と外が曖昧だよなあと思う。そもそも、昔のお屋敷ではだだっ広い広間に屏風を立てて適当に(可変的に)部屋を仕切っていたわけで、そもそも日本古来のお部屋では、仕切りの文化が曖昧だったりする(この辺の話は柏木博氏の「『しきり』の文化論」に詳しい)。

写真はかなり昔に行った京都の源光庵。丸い「悟りの窓」と四角い「迷いの窓」、そして争いの跡が残る伏見城遺構の「血天井」が有名だけど、ここはとにかく外と繋がっている空間だなあという印象だった。廊下には全て縁側があって、外にすぐ出られるし、入り口は開けっ放しだし、どの部屋も自在に風が通り抜けていく。ここに優しいお香もプラスされるから、それはもうユートピアである。

そもそも、内と外って人間が作った概念である。壁を隔てて向こうとこちら。反対の視点に立てば、内外が突然反転したりもする。お家から一歩外に出たとしても、地球規模で見れば、それは「地球の」中でしかない。どこに仕切りを立てて、どちらから見るか、ということでしかないのである。

閑話休題、胎児の体は成長過程で内胚葉、中胚葉、外胚葉という3種類の構造体から形成される。そのままの意味で、内、中、外を作る器官というわけであるが、たとえば、皮膚はもちろん外胚葉から分化して形成される。内胚葉は膵臓、肝臓など、中胚葉は筋肉などを構成する。じゃあ胃腸はといえば、なんと外胚葉。体の中にあるのに外胚葉なのだ。体においても、やっぱり内も外もあんまり関係ないというか、一緒なのである。

難しい話はさておき、中も外もそんなに変わらない。だったら、曖昧なままの空間だってあっていいし、中と外を逆転させてみても面白いかもしれない。いずれにせよ、内と外が曖昧な空間ほど、個人的には心地よく感じるものである。


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