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宗教と山、哲学と登山。

宗教と哲学の違いとは何だろう。もちろん明晰な答えがないことは自明だが、個人的には山に例えて「宗教=山」で「哲学=登山」だと思っている。

宗教は“教義”という山頂がある山のようなもので、頂へたどり着くにはどんな登り方(祈り方?)をしてもいいし、疲れたら休んでもいい。相手は山だからこちらに何も求めてこないが、求められれば(祈ることで)答えてはくれるような存在である。事実、日本では大体の寺が山奥にあって、修行といえばそこで行われるものである。

一方の哲学は登山という行為を指す。どんな答えが待っているかは登ってみなければわからないし、もしかしたら答えなどないかもしれない。これまでありとあらゆる登山家(哲学者)がいろんな登り方を示してきたが、それを信じるかはその人次第だし、登り方に関する議論も多くなされてきた。哲学は行為そのものを指すから、「哲学する」という表現もあながち間違いではない。

まとめると、宗教はどの山を登るのかが大事であって、登り方は制限されないが、哲学はどんな山でもいい代わりに登り方を示さねばならぬ。何となくそんな違いというか関係なんじゃないだろうかなと思う。ただし、これはあくまで現時点の知識で僕が感ずることなので、来年くらいには僕自身の考えも変わっている可能性も大いにある。

さて、写真は日本有数の哲学者・鈴木大拙が生まれた街にある「鈴木大拙館」。設計は谷口吉生。ここを訪れた当時も大拙の著書をいくつか読んではみたが、正直よくわからなかった。よくわからないまま、水辺を眺め、本堂から空を見上げていた。今年あらためて大拙の「東洋的な見方」を読んだ。手に取るようにわかるというわけではなかったが、当たり前の内容を当たり前に理解できた気がする。というか、内容が想像以上にすんなり入ってきた。また数年おきに読んでみようと思う。

大拙の有名な著書に「日本的霊性」という本がある。大拙はここで日本人の持つ精神を「霊性」と言い表した。途中「宗教意識」とも表現しているが、ここで出てくる「宗教」はまた、上記とは少し意味が違うようにも感じる。

いずれにせよ、大拙によれば日本人には生まれ持った「霊性」があるといい、それは端的にいえば「ありのままを理解する心」のようなものだという。たしかに宗教でも、ありのままを受け入れる心は必要なので、「宗教意識」という言い方も理解できる気がする。一方の哲学は行為なので、大拙がこのように思案している様自体がある種の哲学と言えるわけである。

今回もまた、本当に何が言いたいのかわからないまま、無作為に書きたいことを書き殴ってみたが、あらゆる事象について、「日本的霊性」にしたがって「哲学」することはとても貴重なことで、そう簡単なことではない。きっと、環境も重要である。そういった意味では、現在の僕は「宗教」よりも「哲学」に興味があるのかもしれないなと思うのである。

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