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放任と成長の幸福論

アランの「幸福論」という本がある。僕は普段本を読んで泣きそうになることはあんまりないのだけれど、実はこの本はこれまでにないくらい感情がこみ上げた本だった。

その理由は少し特殊だ。というのも、いつしか実家の本棚に眠ってあった岩波文庫のかなり古いものを見つけて東京に持っていったのだが、読み進めてみると赤線がたくさん引かれてあることに気がついた。

僕は次第に理解した。それは、母が僕を産み育てている時に読み、引いた赤線だったということ。もちろん、恥ずかしいから本人には聞いていないが(だったら書くなよという感じもするが)、子供の幸せについて考える部分にばかり赤線が引かれていた。しかも、そうやって引かれている部分に書いてあることは、そのまま母が僕を育ててくれた育児や教育そのものだった。

そういう理由もあって、途中から感情が溢れてしまって、正直内容自体今ではあまり覚えていない。普段は読みながら気になった部分をどんどんメモしていくのに、「幸福論」についてはメモが一つも残っていない。

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自分が置かれていた環境をふと思い出してみる。自分はどうやって育てられたのか。その特徴を一つあげるなら「放任」だったと思う。放任というと少しネガティブな印象を受けるかもしれないが、要は何をしても文句を言われなかった。何を要求しても「ええんちゃう?」と言ってくれた(※実家は大阪だ)。少し厳しい言い方をすれば、母は一切答えを教えてくれなかった。

それが僕の幼き知的好奇心に火をつけたのかもしれない。気になることがあって母に聞いても、「そんなんお母さん知らんわあ」と言って教えてくれない(本当に知らないこともたくさんあったと思うが)。そもそも、実家は自営業をしており、両親も祖父母もみな忙しく働いていた。だから、日頃から近くにはいても、ずっとかまってくれるということはなかった。

その代わり、家には知らないことを調べるには十分なくらいの準備がなされていた。動植物から科学・天体・偉人などありとあらゆる図鑑や書籍はもちろんのこと、星が気になるといえば(めちゃくちゃ簡易なものだが)天体望遠鏡を持ってきて、小さな世界が気になるといえば顕微鏡が準備された。工作をしたいといえば、紙もペンも絵の具も用意してくれたし、虫取りや魚釣りなど、週末にはとにかく自然の中に解き放たれていた。

知るための道具を用意して、それ以上は何も言わない。そんな素晴らしい「放任」環境が、僕にはたまらなく幸せだった。気になることを調べては、わかったことを家族に伝える。家族はそれを嬉しそうに聞いてくれる。何が正しいとか、何が間違っているとか、そんなことは言わない。「そうなんや、すごいなあ」と、それだけだ。そうして、図鑑で知ったことを話して伝え、絵に描いて伝え、気がつけば落書きもメモもすごい量になっていた。

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中学一年生の夏休みに、自由研究的なもので「何かについて調べてまとめる」と言う宿題があった。なぜか当時は韓国に興味があって、「すぐ隣にある国なのに全然文化が違う」と言うことに疑問を抱いていた。そこで、家族に無理を言って韓国にまで連れて行ってもらうことになった。そこでいろんな文化の違いを見てはメモをして、現地の歴史的な名所を訪れたり、バスで乗り合わせた日本語のできるおばちゃんから韓国と日本の歴史について話を聞いたりして、フィルムカメラでたくさんの写真を撮った。最終的には手書きで韓国の文化についてまとめた雑誌ができていた。こうした経験が今の自分を形作っていることは言うまでもない。気になることを調べては発表する。それは編集者という仕事の原点だったのだろう。

大学受験まで(いや、今もだけれど)この好奇心は続いている。受験のための勉強をすることもなく、自分が好きだと思った分野をとことん突き詰める。そもそも、好奇心の範囲が広いから、学校の授業といえど、数学も化学も生物も英語も世界史もわりとなんでも興味が持てた。なんでこんなすごい公式見出せたんだとか、この物質なんでこんな特徴があるんだとか、この生き物なんだとか、なんで日本語と英語ってこんなに違うんだとか・・・。

だから、受験に出てくるかどうかで勉強範囲を決めなかったし、なぜか高校でもこの好奇心に付き合ってくれて大学で学ぶこともたくさん教えてくれた。それが受験勉強といえばそうだったのかもしれないし、ただの知的好奇心を満たす活動だったといえばそうだったのかもしれない。一日12時間くらい勉強をするのも全然嫌じゃなかったし(勉強と思っていなかったのだから)、そう思えることって本当に幸せだったんだと思う。一応現役で大学にも入れたし。

話が逸れてしまうので、このあたりで終わりにしよう。しかし、おそらく、教育というものは、すごくシンプルなものだ。シンプルだからこそ、正攻法はないと思う。これだけやれば知能指数が上がるとか、この塾に行けば子供はいい大学に行けるとか、教育と聞けばそういう言葉ばかりが一人歩きをしている気がするけれど、そもそも、知能指数が上がることとか、大学に入れることとかが、成功なのかというとわからない。幸福の形は人それぞれ違うのだ。もちろん、いい大学に行くことや勉強ができることを目指し、子供もそれに幸福を感じるのであればそれでいいと思う。

僕の場合、自らの知的好奇心に対して、その解消方法を自ら見つけること、それを成長と呼ぶのであれば、教育とは、そんな成長を陰ながらサポートすることに尽きると思う。どんな教材を与えるかとか、どんな習い事を習わせるかとか、そんな具体的なことは僕にはわからないけれど、とにかくいろんな未知に触れることと、そこで見つけた疑問を自分で考えて、解決すること。そのためには、正解を与えすぎないこと。価値観を押し付けないこと。そうして自らの答えと、その答えに至るための思索の癖を見つけること。

教育という大それた言葉のもとでなすべきは、たったそれだけのことなのかもしれない。

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