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いくつかの3月10日。

1945年3月10日

米軍の爆撃機B29の襲来により、約2時間で33万発以上の焼夷弾が投下された。所謂、東京大空襲である。東京の下町は壊滅。10万以上の死者が出た。私はそのことを歴史としてしか知らない。


2009年3月10日

朝一の新幹線に乗り、母と東京を目指した。私は絶対に落ちたと思っていた。自己採点をしてみて毎年の合格予想点には到達していなかったし、そもそも試験が終わった時点で手応えのなかった私は、はじめて降りる丸の内駅の丸善で後期試験の赤本を買い、大阪へ戻る新幹線の中で過去問対策を始めたくらいだ。だから、合格発表へ向かうというよりも、数日後に控えた後期試験のために着替えも持っていたし、東京に住んでいた親戚に数日間泊めてもらう手筈も整えていた。

本郷の合格発表の掲示板にたどり着いた時点では、すでに合否が掲示されており、合格を喜ぶ者と不合格を悲しむ者とでその場の世界は二分されていた。これが社会なんだ、とはじめて感じた。全くの期待をせず、番号を探す。見間違いかと思った。自分の番号がある。母はなかなかそれを見つけられず、人混みの奥で母を抱き上げて「あそこにあるやん」と番号を見せた。

そこからの記憶はあまりない。合格したという実感があまりなかったこともあるし、合格したその足で4月からの下宿先を探さなければいけない。無心で近くの不動産屋へ行き、内見をする暇もなく物件を決めた。初台の小さな安アパート。その生活があまりにしんどくて、その後私はその家を半年で出ることになるのだが、そこから好きな家を探して引っ越すという引越癖が始まったのだったと思う(現在までに都内で9回引越しをしている)。

その日のうちに下宿先を決め、最低限の手続きを済ませ、夜ギリギリの便で大阪へ戻った。自宅へ着くと、階段を上るやいなや、いつもはニコニコしている祖父が私を抱きしめ、泣いた。私が祖父の涙を見たのは、合格したその日の夜と、死に際に会いに帰るも仕事で東京へ戻らざるを得なかった冬の夜の二度だけである。前者では私を抱きしめ、後者では無言で私の手を握って離さなかった。


2011年3月10日

この日の記憶はなにもない。翌日から始まる現実とは思えない日々のことなど知らずに、普通の一日を過ごしていたのだろうと思う。


2018年3月10日

この日、私は韓国にいた。偶然カレンダーの写真を撮っていた(TOPの写真のそれである)。たしか「サジョキン書店」という名前の本屋さんで、予約制でオーナーが話を聞いて選書をしてくれるだけの本のない本屋。なにも知らない私は一人この書店を訪れ、カレンダーを見てその日がお休みであることを知った。この店は今はもう無くなってしまったらしい。


2021年3月10日

今日。新しいプロジェクトを立ち上げ、進行しているいくつものプロジェクトの業務をこなし、晩御飯を作って、この原稿を書いている。そうして、これを公開して、お風呂に入って、寝る。当たり前の一日が終わる。


2022年3月10日

私はどこで誰と、なにをしているだろうか。そんなことはもちろんわからないけれど、その日もきっと地球は回っていて、私は呼吸をしていたいと静かに思う。


20XX年3月10日

今はこうやってインターネット上に言葉を残すことができるけれど、いつかインターネットが無くなってしまったり、そもそも言語コミュニケーションが無くなってしまったら、その時私たちはどうやって心を通わせるのだろう。私たちが死んで、ずっと子孫たちが生きている世界で、その時、3月10日という数字に意味など残されているのだろうか。



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