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珍しくためになるかもしれない文学的トリビアとしての「古典主義とロマン主義」(あるいは魔法の世紀における芸術)

関西でも雨がバンバン降ってまいりました。今日は流石に外に出られないので、久しぶりにnote書きます。

さて、僕のもう一つの仕事は一応文学研究ってことになってます。そして世間一般では(世間一般って誰やねんと思わないでもないですが)、文学研究って役に立たないと思われてるわけです。そのとおりだと思います。それに対して文句を言おうとは全然思わなくて、むしろ「役に立たなさ」ということの持っている冗長性という点において、文学は尊いなあと思ってるわけですが(文学だけじゃなくて、哲学とか美学とかもそうかもしれません)、今日は珍しくちょっとためになるトリビアとして「古典主義」と「ロマン主義」の話を簡単にしようかなと。

「ロマン主義?なんやそれ、高校くらいの時に社会の時間で覚えさせられたぞ」って方がいらっしゃったら正解です。日本においては19世紀末くらいに輸入された概念で、多分森鴎外あたりから始まって、大正初期のあの「大正デモクラシー」の時代に流行ったあれですね。基本的には社会が変動する時代、特にポジティブに開放的に変動する時代にロマン主義は強くなります。発祥はフランスを中心とした西欧で、18世紀末あたりに始まると言われてます。つまりちょうどナポレオン革命の時期ですね。やっぱりほら、社会が熱情っぽく動いている。

なんでこれをロマン主義っていうかと言うと「ロマンチック」だからで、「ロマンチック」の語源は「ローマ的な」というわけで、しかもその「ローマ的」は「庶民的ローマ」という意味での「ロマン」なので、平たくいうと「ロマン主義」ってのは「個人の感情や自由や情熱を表現する主義」ってことになるわけです。超ざっくりですが間違ってないはずです。だから、「革命だー!いくぜー!」みたいな社会状況の時、その個人の高揚感を高らかに宣言するような形式として「ロマン主義」が強くなるわけです。

その反対が、つまりは「古典主義」ですね。完璧に正反対の概念です。規範は常に先行する芸術様式にあるわけです。過去は偉大なんですよ、常に。先人に学ぶが極まると「古典主義」に行き着く。西欧においては、究極的には「ギリシャ・ローマ」が規範です。アジアはなんだろう、ちょっとわかんない。何にせよ「過去こそが偉大」であって、個人のチンケな発想なんぞ重要ではなく、芸術は古典を正確に解釈して、その解釈に多少の現代的な要素を加えてリファインして継承するというのが古典主義の基本的な枠組みです。これも超ざっくりまとめです。

こんな風に書くと「うへっ、古典主義ってのは固そう、おもんなさそう、難しそう」って思うかもしれないんですが、実は往々にして古典主義の方が革命大好きロマン主義も真っ青の革命的な芸術的成果を出したりします。例えばジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』は、時代背景的にはモダニズムなんでロマン主義の延長上にあるんですが、実際には『ユリシーズ』は、超ウルトラ古典オブ古典であるホメロスの『オデュッセイア』の物語構造を間借りしている、いわば「偽装された古典主義」なわけですが、超革命的な小説です。常人ではついていけないぐらいの文章密度と芸術的意匠の集大成。似非ロマン主義のちゃちい「俺サイコー」な感じなんて、ジョイスの前では消し飛ぶ程の勢いです。

さて、長々と「古典主義」と「ロマン主義」の話をしました。超ざっくりなので細かいところはすべて省いてる上になんか間違ってるとこもあるかもしれませんが、まあ学者でもない限りこんなもんで十分なはずです。

もうちょっと歴史の前後を見ると、古典主義とロマン主義の前にはルネッサンスとバロックがありますし、その前にはさらにゴシックとロマネスクがあります。でもこれら全部「規範」と「個人」の対立と考えると、「古典主義」と「ロマン主義」の対立なんですよね。最終的にこの両者は「神は死んだ」のニーチェから、言語構造の恣意性を見出したソシュール、個人の無意識を確定したフロイトなどの19世紀末から20世紀頭の研究を受けて、「なんだ、思ってたよりも世界は断片的なんだね」という「大きな物語の喪失」という現象からのポストモダンの到来で両派ともに機能不全に至るわけですが、(ポストモダンは、いわば冷笑的なロマン主義なので、自己矛盾的なんですよね)、それはそれとして、未だにこの「古典主義」と「ロマン主義」の対立構造というのは、物事を捉える枠組みとして、芸術に限らず有効であると感じるんです。

例えば写真を例にとっても、フィルムに回帰するような発想は古典主義的だし、デジタルでPhotoshopバリバリみたいなのはロマン主義的な発想です。で、問題は、多くの場合、こうした両派は、自分たちのほうが「良い」って考える傾向があるんですが、ぶっちゃけると、延々数百年間、見方によっては2000年近く人間がやってきた「古典主義」対「ロマン主義」の焼き直しに過ぎないわけなんです。

こんなことを書くと両派からクレームが来そうなんですが、何が言いたいかと言うと、今世の中は社会構造の劇的な高速化に伴って、次のステージに入りつつあると感じるんですね。落合陽一先生の言葉を借りるなら、世界は今「魔法の世紀」に入りましたつまり過去数百年の間、ゆったりと「古典」と「ロマン」を行き来してきた人間の発想は、高度な技術革新による社会の超高速な蠕動に伴って、異常な程のスピードで見える視野を更新しているということなんです。かつてシベルヴシュやクレーリーが産業革命からの「鉄道」の発明が、人間の視野や認識を変えたと言いましたが、その数百倍のスピードで人間の認識が変質するのが現代です。これを魔法と呼ばずして他になんと呼べるでしょうか。

最初の方に書きましたが、「ロマン主義」というのは個人の魂の解放の時代に強くなるといいました。一方「古典主義」は、中庸の時代、安定の時代に好まれます。ところが、最近の世界は「解放」して「安定」したと思ったら、またたくまに「破壊」されて、また「混乱」になって、わやわやしているうちにまた短い「安定」が来るというような、「1年前のあれはなんだったの?」的な社会状況です。一瞬で仮想通貨が数万円から200万円を超えたと思ったら、数カ月後には70万円の世界。スマホでARのポケモンGoが出たと思ったら、同じ任天堂が「古典集結」の代表格であるスマブラを出すわけです。つまり、入り乱れている。

価値観が入り乱れると、自分の足元が揺らぎます。その自分の足元が揺らがないためには、先人たちが作った思考の依拠枠組みというのは、ある程度、激流の中で自分をつなぎとめる嵐の中の灯台の役割を果たしてくれるわけです。芸術の中で見出された「古典主義」と「ロマン主義」の二項対立の枠組みもまた、芸術以外に対して適用可能なんです。

勿論これはポストモダンの枠組みの中で一端は壊滅したかに見えたんですが、でも「古典(教条主義)」と「ロマン(個人主義)」というのは、人間という種族が自分の思考や生きるための共同体を作るときの基盤なので、そう簡単には廃れないんです。例えば国家に目を向けるなら、日本は社会全体として古典主義的な傾向があるし、一方アメリカは国全体としてフロンティアの国民なのでロマン主義的な性質を多分に含んでいる。自分の所属している様々な「世界」(この「世界」は、マルクス・ガブリエル的な「世界」です)で、一体自分がどこにいるのかという時に、基本の「き」に立ち返るための依拠枠組みとしては、割とまだまだ有用ではないかということで、ちょっと書いてみました。

嵐の日に、自分の灯台を探すような気持ちでこれを書き終わります。ちなみに僕の立ち位置はというと、「ロマン主義」の顔をした「古典主義」的なポストモダニストです。


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