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「自粛警察」にならないために(コロナがもたらす「全世界相互監視社会化」と、「距離」の可能性)

1.「自粛警察」

今日、あるニュース記事を読んだ時、少し心に寒気を感じました。

「自粛警察」の存在そのものにではありません。というのは、我々は今や、そこら中にいる「ポリス」に囲まれがちです。例えば僕は写真家ですが、「桜ポリス」「絶景ポリス」「マナーポリス」「彩度ポリス」「jpg撮って出しポリス」などなど、枚挙に暇がないほどです。デジタル化以後の写真は裾野が広く、誰もが簡単に参入できるという身軽さが、写真という文化をここまで引き上げた原動力であると同時に、あまりにも多様化した価値観のために、自分と違う価値観に非寛容な人が一定いらっしゃいます。それが高じたのが、上のような「ポリス」たち。写真に限らず、統一的なルールのない分野においては、発生しがちな問題なのでしょう。「自粛警察」もまた、その一つです。だからそれ自体は現代においてはありふれた現象であるのでしょう。インターネットがときに「単に電子化したムラ社会」と言われる理由がここにあります。

ただ、今回「自粛警察」に寒気を感じた理由は、これは他人事ではないと感じたからなんです。平たく言えば、うかうかしていると自分もまた、あれほど毛嫌いしていたポリスになるんじゃないか、そんな僅かな感触に自ら怯えました。

国家権力でもないのに人の行動を制限しようとする、このような「私設警察」たちの存在は、一言でいえばミシェル・フーコーのいう「規律訓練型権力」が顕在化した例です。難しそうな話ですが、みなさんも「パノプティコン」という単語を聞いたことがあると思います。直近ではアニメPSYCHO-PASSの中でも、この単語はキーワードとして出てきました。ちょっと掻い摘んで説明してみます。

2. パノプティコンとは

もともとパノプティコンとは、功利主義哲学者のジェレミー・ベンサムが、できるだけ効率よく囚人を監視するための監獄として考案したものでした。円形の監獄になっていて、真ん中には看守がいます。看守からはすべての囚人たちの姿が24時間見えて、そのことを囚人たちは熟知しています。一方、囚人たちからは看守や他の囚人は見えない構造になっています。こうなると、囚人たちは常に看守の目線を意識せねばなりません。最終的にどうなるかというと、看守が真ん中に存在する必要はなくなるのです。囚人たちの内面に、「看守が監視しているかもしれない」という恐怖が刷り込まれた時、囚人たちは二度と逆らえなくなるからです。

ベンサム自身はパノプティコンにこのような「監視の目線の内在化」を促進する要素があるとは考えず、むしろこの施設は犯罪者の厚生と、その後の社会復帰を企図して考案されたものなんですが、20世紀に入ると、哲学者のミシェル・フーコーが改めてこれを取り上げて、こうしたパノプティコン型の監視の形を、「規律訓練型権力」と呼びました。そしてこれは監獄のみならず、「国家」が「国民」を統治するときのあらゆる監視体制の中に見出すことができるとフーコーは指摘します。例えば軍隊はそうだし、もっと身近な部分で言えば「学校」がそうです。先生が壇上から見ている「かもしれない」という恐怖を刷り込むために、小学校から高校まで、「学校」と名指されるシステムは、教員が少し高いところから生徒たちを一望監視する形をとっています。

ちょっと脱線しますが、学校という場所は、「監視」が最も能率よく刷り込まれる手法が、てんこ盛りの状態になっています。例えば時間割システムは「時間の管理」、体育のときの「体育ずわり」は「身体の管理」です。こうやって、生徒に本来与えられている自由な人間としての諸機能を、学校は次々に管理し、監視し、支配します。なんのためにかというと、もちろん、社会の歯車に仕立てるためです。最効率の生産性を生み出す歯車にするために、我々は小さいころから自分の自由を奪われるシステムの中で生きざるを得ないわけですね。

更に脱線すると、日本でリモート学習がなかなか進まない理由は、リモートにしちゃうと「一望監視」ができないからなんですよね。昨日出てきた面白い「会議」の動画は、これに関するすごく愉快な例です。

一望監視の「キモ」は、「自分が見られているかもしれない」という恐怖を刷り込むことですが、うまくやれば「監視の目」をごまかすことができる。あの動画では失敗したんですが、そのうちAIがうまく自分のアバターを作ってくれるような社会になれば、もはや「監視者の目」を恐れる必要さえなくなるかもしれません。リモートは、ある意味では「希望」なんです。離れれば離れるほど、身体への毀損の可能性も減り、監視の網が届きにくくなる。恐怖が減る。

ちょっと脱線しすぎました。最後に書いた「希望」は、この記事の最後の結末になるので、覚えておいてください。

3. ビッグブラザーとリトル・ピープル

もちろん現代はここまで露骨な「監視」を全面に押し出さないのですが、例えば「美しい道徳」とか「気高い国民性」とかいう単語にすり替えることで、「規律」を内在化するための手法はありとあらゆるところに敷衍されている。そして僕らは、20歳くらいになるまでそうしたロジックを刷り込まれているせいで、少しでもルールから脱線する人に対して、いらだちを感じたり、不服を感じたりする精神が刷り込まれしまっている。

それがいわば、「ポリス化」の兆候なんです。現代においては、「内在する監視の目」は、単に自らを律する「規律訓練型権力」の範囲を超え出て、他者の行動に干渉するそれが意味するのは「監視権力との同化」です。本来「巨大な権力」が「小さな個人」を支配するためのシステムとして名指されていた「パノプティコン」は、ジョージ・オーウェルの『1984』にて批判的にその恐怖が描かれました。でも、もはやビッグブラザーは存在しないことを描き出したのは村上春樹の『1Q84』でした。そして『1Q84』においてビッグブラザーの代替として出てくるのがリトル・ピープル。あの時、『1Q84』の時点では、まだほとんどその兆候さえ見えなかった「監視権力と同化する小さい個人」の存在は、今ではありふれた存在として、日々そこらじゅうで目にするようになりました。それが冒頭に書いたネットにあふれかえる私設警察・ポリスたちの存在。自らの内側に本来恐怖として存在していた「他者の監視の目」を、「自分の目線」へとすり替えてしまうことによって、ちっぽけな全能感を求める人々に提供された「娯楽」なんです。

ただ、これまではそれほど深刻に思えなかった、こうした私設警察的「リトル・ピープル」の存在なんですが、今日「自粛警察」という単語を見た時、薄ら寒く感じたのは、その萌芽は自分にもあるんじゃないかと感じたからです。これは他人事ではないなと。この感覚はどこから生まれてきたものなのか?

そもそも「自粛」を他人に強制するって、強烈な自己矛盾です。だって自粛とは、自分からやるものであるはずで、他者がとやかく言うものではない。それを他者に求めてしまう源泉には何があるのか。それこそ、今僕らが直面している「コロナ」がもたらしたものです。

4.コロナがもたらす「全世界監視社会化」

コロナのために、僕らは「自粛を強制されざるをえない毎日」を送っています。上にも書いたように、自粛とは自ら決めることなのですから、自粛しないという選択もありえる。でも僕らは自粛するんです。なぜか。それは「他者の監視の目」が怖いからです。どこにいるかもわからない、他者のことを気にして、たかだか数十メートルゴミを捨てに外に出るのにマスクを付ける。マスクには予防効果があるというより「みんながつけているから」ということへの暗黙の同意を表象するエクスキューズとして、マスクを付ける。こうして、あの懐かしい「パノプティコン」が、全世界を席巻してしまっているんです。コロナというこの病は、僕らの世界を、全て「相互監視」の世界に変えてしまいました。個人だけではない。国同士でさえ、閉ざした扉の内側から互いを監視し、その行動をつぶさに見張っている。

このどこにも逃げ場がない抑圧の強烈さが、自分の内側に不穏な種をまくんです。「なんであいつはマスクをしていないんだ」「なぜあいつは自粛せずに海に行ってるんだ」なぜ、なぜ、なぜ。その感情の成れの果てが「自粛警察」です。本来、他者に強制するものではないはずの自粛を強要する存在。でも、その際立った矛盾にも関わらず、自分もまた、不満を抱えていることが薄っすらと自覚される。このままではまずい。自身が「自粛警察」なんていうグロテスクな存在にならないために、僕らはやらねばならないことがある。

5.今仕方なく取っている「距離」が示す可能性と希望

それが上の方に書いた「希望」です。僕が今、やたら「リモート」にこだわるのも、それが理由です。コロナは今のような「世界全体パノプティコン化」を招いた原因でもありますが、一方、一度家の中に入って、そこにコロナがないことを確認すれば、これまで許されていなかった「自由」が広がる可能性もまた準備しました。リモートワークで仕事場に行く必要がなくなった、リモート授業では学生たちは自由に授業に参加したり(あるいは参加しなかったり)できるようになった。もちろん懸念もたくさんある。本当に学力が伸びるのかどうか。でも、これまで「監視」という脅迫で成立していた、19世紀監視型の教育ではない可能性も見出すことができるかもしれない。それは「距離」がもたらす恩恵だと思っています。これまでインターネットが「広い村」でしかなかったものが、もしかしたら本当に巨大な距離によってそれぞれが分かたれ、しかし緩やかにつながる「共和国」みたいなようなものに発展できるかもしれない

ムラの価値観から弾かれたら永遠にデジタルタトゥーとして追い込まれる狭い社会ではなく、逃げ場がいくつもあるような、たくさんの獣道や抜け道がある広い空間。距離を保つことの意味に、深化が加わるかもしれない。そんなふうに想像してます。

そして写真家としても「リモート」は、これまでとは違う何かを生み出す可能性がある。ウェブカメラ化や、リモート撮影にこだわる理由はそこです。単純に「これなら今できそうだから」とか「本当はやりたくないけどこれで我慢する」ではなくて、リモートを経由した映像の制作は、「その後」につながる可能性があるからです。つまり、未来の予兆が今手元に来ている。

それに全力で準備していくことで、この閉塞感だらけの状況の中で、自分の心を開放できる。身体が縛り付けられている以上、せめて魂くらいは自由にしておきたい。自らをリトル・ピープルにしないためにも。

というようなことを今日感じた次第です。

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フォトグラファー。アメリカ文学研究者。滋賀、京都を中心とした”Around The Lake”というテーマでの撮影がライフワーク。インスタはこちら: https://www.instagram.com/takahiro_bessho/

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