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写真と文学 第十回 「実像と鏡像の狭間に揺れる自己」

 朝目覚める。あなたはまず何をするだろう。目覚めたばかりの脳は全身をうまくコントロールできず、刷り込まれた慣習に従って、例えばベッドサイドの眼鏡を手に取るかもしれない。そうして1日が始まる。だが、あなたはまだ目覚めていない。眠る前に残してきた自身とのつながりを失っている。本格的に目覚めるのは数分後のことだ。しばらくリビングをうろつきながら、今日やることを思い出す。そうしておもむろに身支度を始める。顔を洗うとき、あなたは鏡をのぞき込むだろう。顔を洗う、歯を磨く、髪をとかす。その一連の行動の最中、鏡を見続ける。そこに映る顔。

それは一体、誰だ?

 もちろん、それはあなたに他ならない。あなたは自分の顔を見て、徐々に自分自身を取り戻す。目覚めた脳は強力な統制力を発揮して、自我の一貫性を強く主張する。しかし時にふと、違和感を覚える。まるで悪夢の残滓のような疑問が心の隅でささやく。鏡に映っている顔は本当に自分なのだろうか?馬鹿げた疑問は、朝の光の中、まるで光を恐れる闇の眷属のように、霧散していく。

 そう、我々人間にとって実は最も遠いのが自分自身だ。あなたはあなたに触れられるかもしれないし、あなたはあなたをちゃんと統御していると思っているかもしれない。でも、あなたは決して、あなた自身を生涯見ることができない。鏡に映った像は、光の反射が描き出した像、「光画」にすぎない。人々はそこに何の齟齬ごもないと言うだろう。でもそのことをあなただけが証明できない。何億もの事実を集めても自分の顔を直接見ることは永遠にできないのだ。声もそうだ。あなたが発する声は、私たちが骨や肉を通して聞いている声と違うことは、よく知っているだろう。録音された自分の声の奇妙な響きに当惑した経験を誰もが持っているはずだ。こうして我々は、他者に対して自己を表記する最大の記号「顔」と「声」の2つから、永遠に隔てられる。我々は自己に対して他者なのだ。生まれてから死ぬまで。

 そのような自己との乖離を激しく追い求めた作家の1人が、19世紀のアメリカの作家エドガー・アラン・ポーだった。彼は有名な短編である『黒猫』や『告げ口心臓』において、自分こそが最も自己に対して強烈な敵意を持つ他者であるというテーマを執拗に描き出す。それはその最大の結実である『ウィリアム・ウィルソン』という小説で、最も深く抉られることになる。『ウィリアム・ウィルソン』は、いわゆる「ダブル(分身譚)」と呼ばれる小説のジャンルに属する。ウィルソンは小学校に入った直後から、自分と瓜2つで、同じ誕生日で、同じ日に小学校に入学した同名の男からの執拗な讒言に苛立ちを隠せない。年月を経て、最終的にウィルソンは化粧室に現れたもう1人のウィルソンの胸に短剣を突き立てるシーンで短編は終わりを告げる。しかし驚いたことに、その剣が突き刺さったのは、他ならぬ自分の胸であったというのがこの短編の顛末だ。現代の読者は「もう1人のウィルソンは、主人公の分裂した無意識下の内面のことだね」と気付く。だが、その判断は保留してほしい。ポーがこの小説を書いた19世紀の中葉において、人類はまだ「無意識」を発見していない。19世紀の末、ようやくジークムント・フロイトが発見したのが、我々の知る「無意識」であり、彼の学説により人間の行動の大半は表に出ない「無意識」で統御されていることが判明する。そんな時代、ポーは誰よりも正確に人間の内面を見つめる。人間の表面と内側には齟齬があることを熟知していた。もう1人のウィルソンの表現を、ポーはこのように描く。

「じっさいには、彼にはひとつだけ急所があり、それはおそらく身体上の疾患に起因する個人的な特質であって、わたしのようなライバルであればそこに徹底的につけこむだろう。というのも、わがライバルには咽喉機能に問題があり、どんなに声を出そうとしても低くささやく以上のことができなかったからである。」
エドガー・アラン・ポー『ウィリアム・ウィルソン』(黒猫・アッシャー家の崩壊ポー短編集Iゴシック編収録)巽孝之(訳)、新潮社、2009年、P.126

 極めてうまい表現だ。小説におけるもう1人のウィルソンは、いわゆる人間の「良心の声」のようなものだが、主人公のウィルソンだけがそれに気付かずに、その声を「同姓同名の、自分そっくりの他者」として認識している。その齟齬を、我々読者は薄々感じながら、ウィルソンだけが気付いていないという状況。それをポーは、精神医学の発明のない時代に描き出す。

 小説の最後に「鏡」が出てくる。最後の最後で、これまでささやき声だったもう1人のウィルソンの声は大きくなり、「あたかも自身が語っているかのように」主人公ウィルソンの死を告げる。鏡のイメージを媒介して、主人公はもう1人のウィルソンがどうやら自分であったことを知った瞬間に死んでいく。

 ポーがその生涯で常に見続けていたのは、「自分」と「自己」との間の「一致」というよりは、「齟齬」であり「違和感」であった。冒頭の朝のイメージはこの小説を思い出して書いたものだ。鏡を見るときふと訪れる疑問を拡大すれば、おそらくはウィルソンのはまり込んだ「齟齬」や「違和感」に結びつく。鏡に映り込んでいる私は、飽くまで「反射」した像に過ぎない。左右の動きが反対になるあの「鏡像」。そしてそれは写真の原理と共鳴する

 写真の基本的な光学の原理は、皆さんご存知だろう。外から入ってくる光は、レンズを通じて焦点を結んだとき、上下左右反転した像としてセンサーに届く。その像が画像処理され、我々に「画」として提示される。「真実の光そのもの」と思い込みがちなRAWデータでさえ、実はまず届いた光を「反転」させるというプロセスを経て「見えるもの」として加工されているのだ。光は確かに真実そのものだとしても、我々人間に届く経路でその真実の一端は常に抜け落ち続ける

 だが、もう1つ恐ろしいことがある。実は、我々の目もまた、カメラと同じなのだ。我々が目の仕組みで見ている世界というのは、本来は上下左右反転した世界。目は、カメラと同じ原理で光を集光している。レンズである目の一番前の水晶体を経由して焦点の結ばれた像は、網膜に反対の像として光の情報が届いている。だが、脳がそれを反転する。世界そのものの向きと、見ている世界との齟齬を修正するために、脳が修正を入れるのだ。頭上に光、足元に闇が広がる状況で、網膜には上に闇が、下に光が広がる。その「齟齬」を知っているのは、脳だけだ。その齟齬が「俺は一体誰なのだ」と小さい声で叫ばせる。鏡の前に立ったウィルソンのように。

 カメラを通じて我々が認識することができるデータは、都合2度反転されている。1度めはカメラによって、2度めは我々自身の脳によって。真実はなんて遠いのだろう!

 それでも我々が写真を撮るのは、逆説的にそれが「よすが」になるからかもしれない。あなたが自分を把握できないとしても、目の前にいるあなたを見る誰かは、あなたよりもあなたに近づける。あるいは見えている世界を解釈し、それを見つめることで「世界」として存在させているのは、他ならぬあなたの眼差しだ。自分が永遠に自己からずれるのは仕方がないにせよ、その齟齬を埋めるために、我々は他者を、あるいは外の世界をカメラに収めることで埋め合わせる。永遠に自分を捉えることはできないにせよ、少なくとも目の前にいる人に、写真を通じて「これが君なんだよ」と告げることはできる。


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