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それは純粋な悪意なのか

この話をどんな風に書けばいいのか、今日の夕方からの半日、そのことをずっと考えていた。それはほんの些細な出来事だけど、おそらくこの後の人生のかなり長い間、自分の人生の中で黒いシミのように残る経験になるだろうと言う予感がするし、もしかすると今後何らかの「とても悪いこと」が僕に起こる、その直接的な原因になるのかもしれない。とりあえず「ことの経緯」をできるだけわかりやすく書くことにしよう。

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秋の日は落ちるのが早い。15時には世界はもう夕方の気配で、そろそろ晩御飯の準備を買いに行かねばならない時刻。近くのスーパーまで買い物に行った。今日はパスタの予定だった。素早くチャチャっと買い物を終えて、家に帰り着くその最後の角を曲がろうとした時、一台の軽バンが道を塞いでいた。家からは約20メートルの角、ちょうど僕の家の方に曲がる道が軽バンのボディで塞がれる形だったので、一旦立ち止まって車の窓を見てみると、一人の男、おそらく20代後半から30代前半くらいの男が、僕の方を見ていた

正確には僕の方ではなく、どうも何かを探しているみたいで僕の頭の後ろの方を見ているような視線を向けている。そして止まっているように思えたその車は、時速0.02キロくらいのスピードで不規則にジリジリと動いていた。動いているので迂回も怖い。しかも横を見て動かしているので、危ないったらありゃしない。思わず僕はマスクをつけたまま、

「危ないやん、はよ行きなさいよ」

みたいなことをぼそっと呟いた。小声でさらに僕はマスクを着けていたし、男は車の中で窓を閉めた状態。僕の声は聞こえるわけもない。男は僕の存在にも気付いていないようだったので(視線が僕と合わず、絶えず僕の頭の後ろ側の方を見ている目線だったのだ)、仕方なく車と道の隅っこのあいだの僅かな隙間から反対側に抜けようとした。ちょっと怖かったけど、車の前をウロウロ動けば流石に何か気づくだろう、いつまでも待ってるのもなんだか馬鹿馬鹿しい、まあ大丈夫だろうと。

問題なく反対側に抜けて、少し家の方向に向けて歩き出したその瞬間だった。軽バンがすごい勢いで発進して、僕の方に「幅寄せ」しながら抜き去っていった。幅寄せは意図的だった。もし僕がちょっと右側にふらつきでもしたら、完璧に撥ねられるほどの距離まで近くに寄せてきたのだ。

巨大な鉄の塊が風を切って自分のすぐ横を過ぎ去る経験というのは、あまりしたくないものだ。恐怖を感じた。もしかしたら男に僕の声が聞こえていたのだろうか?いや、それはあり得ない、小声だったし僕はマスクを着けていた。では理由は?マスクの上からのぞいていた僕の視線や表情にでも苛立ったのだろうか。それも疑わしい、だって僕は自他ともに認める表情の薄い人間だからだ。特に自分一人の時はそうだ。男が怒る理由がわからない。でも、男は明らかに僕に対して意図的に突進してきた。苛立ちか、あるいは深い怒りを感じているような過ぎ去り方だった。

まあでもこの程度のことは生きていたらよくある、というほどのことでもないにせよ、何度かは人生で経験する。人からいきなり、覚えのない苛立ちや怒りを向けられることもある。ここまでだったら、「ちょっと怖いよくある話」で終わらせられた。

問題はその5分後、家に買い物袋を置いて、すぐに郵便局に郵便物を出しに、もう一度外に出た時だった。

男が、僕を探していた。

それは誤解でもなんでもない。でも、その「僕を探していた」ことへの驚きは、実はあまりなかった。僕のそばを過ぎ去るとき、男が僕の方に顔を向けていたことに僕は気付いていたし、その目線に、尋常ならざる狂気に近い「思い込み」を一瞬で感じたからだ。家をもう一度出る時、「その角を曲がったら、もしかしたら男が待機しているかもしれない」と、少し予感がしたのだ。

だから家を出て、スーパーとは逆側の方向のもう一つの角を曲がった瞬間、背中側からすごい勢いで軽バンが突進してきたのがわかった時、妙に頭は冷静だった。そして僕の横を過ぎ去るとき幅寄せしながら、スピードダウンして僕の顔をジロジロ見ていったのだった。その顔には、もう怒りも苛立ちもなかった。ただ、単純に「敵を確認した」というような冷静な敵意だけが漲っていた。まるでこれから、敵国の捕虜を処刑する時のような、鋭く寒々しい敵意。

そして近づいてきた時と同じように、急に踏み込んだアクセル特有の暴力的な加速音を残して、男は去っていった。先ほどとは違う寒気を感じながら、僕は足早に郵便局へ行き、そして家とは「逆側」へと歩みを進めた。このまま後をつけられる可能性があるかもしれないし、家を特定されると厄介なことになりかねないと思ったからだ。男が走っていったのとは逆側、JRの駅に向かう大通りの方に足を向けた。リバーシブルの上着を着ていたので、服も逆向けにきた。なんとなく、「まだ男が自分を探している」という直感が働いたのだ。男が、僕を見つけるまではここを去らないという確信があった。

そして3度目の出会い。駅に向かう大通りを、その車はすごいスピードで走っていった。僕はその大通りへとちょうど合流する路地を歩いているところで、あと数秒、路地を出るのが早かったら、多分男に見つかっていただろう。幸い、見つかることはなかった。何故なら、その男は、大通りを一番どんつきまで走った後、Uターンしてこちら側にすごい勢いで戻ってきたからだ、まるで仕留め損ねて逃げた獲物を、執拗に探し回るように。そして再び路地に隠れて見張っていた僕の目の前をすごいスピードで走り抜けながら、最初に出会ったスーパー近くの角に向かって走り去っていった。僕はその様子を路地からずっと見ていた。気を抜かなくてよかった。

その後僕は、家に寄り付かないよう、寒い中を数時間歩き回る。男がなぜそこまで僕に苛立ったのか、僕に怒りを感じたのか。何が彼の逆鱗に触れたのか。一切わからない。

ただ感じたのは、圧倒的な敵意。あるいは、純粋な悪意

そう、多分これは悪意だった。相対的に弱い存在(生身の僕)を、優位な立ち位置(鉄の塊の中)から弄び、命を脅かそうとする意思。悪意に貫かれた時、人間は立ちすくむ。もうそれには理性が関与する隙間もなく、ただ対象を損なおうとする意志だけが怪物のように独立して動き出すからだ。僕は人生で何度目かの「怪物」を、おそらく目にしたのだ。出会ってはいけないもの、出会ってしまったら、即座に逃げるべきもの。悪と悪意が肉の中に詰め込まれた生物。彼らが憎み、怒り、敵意を暴発させるのに理由はない。弱い僕らは、それに出会った時、逃げるしかない。

そんな経験をした。幸い、空がすっかり暗くなった後、僕は闇に紛れて無事家に帰ることができた。でも、その数時間の間、人の敵意と悪意に晒されながら、ひたすら身を縮めて暗い空の下で逃げ回った経験は、この後生きていく上で、黒いシミのように僕の内側に残るだろうという嫌な予感を与えるに十分だった。帰り着いた時、おそらくずっと緊張していたのだろう。外は随分寒かったのに脇の下には嫌な汗が溜まっていて、全身の筋肉がいまさら悲鳴をあげるように、凝り固まった痛みを訴えていた。

=*=

僕はこれまで、比較的、人には恵まれている方だった気がする。特に今フリーで仕事していると、そのことを痛感する。だが、この世界は多分本来はそんなあたたかい場所じゃない。おそらく、古代からずっと闇の中にいた眷属は、姿と形をかえ、一見するとただの人間のような姿へと変身して、我々と一緒のこの世界の中に生きている。かつて村上春樹が「やみくろ」として描いた存在は、多分もう僕らの近くに存在する。純粋な悪意と敵意に満ちた怪物たち。

願わくは、もう2度とそのような存在に出会わずにすみますように。そしてこれを読むあなたの前にそんな存在が現れたら、逃げてください。全てを投げ打って逃げる。物理的にも精神的にも。

もし僕が近々に何か変な事件に巻き込まれるようなことがあれば、多分犯人は軽バンに乗っているので、その時は、名探偵にその情報を伝えて欲しい。ギリギリ助かるかどうかの瀬戸際って、そういう情報だから。

でもできれば、明日は暖かい一日になればいいと願っている。この夜の闇が明けた時、窓から注ぐ太陽の光を浴びながら、お気に入りのコーヒーを入れて、少しのチョコレートと一緒に、ゆっくりと飲む。そうやって、今この胸の奥にまだ残っている恐怖の残滓を、消せないまでも、隠したい。そんな朝が訪れますように。

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