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写真と文学 第九回 「時を呼び起こす時間と光の記録」

 2018年の年始、ちょうど「しぶんぎ座流星群」が極大の日に、新年らしい話題作が地上波で初放送された。「君の名は。」だ。この映画に関しては一度取り上げたが、何よりの功績は「大きな物語」が喪失した現代にあって、多くの人が享受し得る物語を作り出した点だ。1つの物語を世界に流通させるということは、ほとんど世界を1つ作ってしまうことに等しい。

 しかし、今回のテーマは映画自体の話ではない。映画の間に挟まれたあるCMに興味を引かれたのだ。話題作だけあり各CM枠の中に1、2本、「君の名は。」の放映に合わせて作られた特別なCMがあった。そんな中で私が引かれたのは政府広報が作っていた「Society5.0」というCMだ。Webでも確認できるが、数十年先の「日常生活」が1人の女子高生の視点で描かれる。

 ドローン配送で印象的に始まるそのCMは、朝食のシーンでAI冷蔵庫がレシピのオススメを提示し、途中でビッグデータを活用したおばあちゃんの遠隔診療のシーンが挟まれる。その中で私の興味を引いたのは、女の子が地元の小さい雑貨屋で買い物をする場面。そこで女の子は決済にスマートフォンを使う。田舎町の小さな個人商店さえもキャッシュレス決済が導入されているような未来の姿。そこで私はふと疑問に思ったのだ。この決済は一体どのような「通貨」でなされているのだろうか?

  数十年後の通貨がどうなっているか予測をすることは難しいが、おそらくもう10年もすれば現在我々が大事に抱えている紙や鉱物を使ったリアルキャッシュは、今ほどの強い力は保てなくなるだろう。世界がIT技術により激変していく中で、ものとしての「お金」の持っている機能ではどうしても不足する。円もドルも、ユーロも元も、本質的にはすべて同じものだが、それらはおそらく、現在新しい「みえない貨幣」によって代替されていくだろう。女子高生がCMの中の小さい商店で支払った通貨は、今より使いやすく進化した何らかのデジタルマネーによって、決済が行われているはずだ。例えばそのデジタルマネーの未来の一つである「仮想通貨」は、新しい経済圏の到来に対して先鞭をつける技術のはずだった。

 現在「仮想通貨」と呼ばれているものは、概ねブロックチェーンという技術によって成立している。ギャンブル的な運用やサイバー攻撃などの問題が注目されがちだが、この技術の核心は、管理している中央の主体が存在しないという点にある。円ならば日本銀行が管理しているが、仮想通貨を管理しているのはユーザー自身だ。データのやり取りに参加した瞬間、我々はブロックチェーン上に保管されている過去の取引のすべてが記録されたデータを、個々人で分散して保持することになる。データを分散して保持することで、常にデータの整合性が監視され、信頼性が担保されるわけだ。そこに強大な国家の力による介入は原理的に許されない。通貨は国家の管理を離れ、我々一般人全員の同意によって管理されることになる。中央集権の歴史の解体、と識者はいう。

 というような話をしながら、それがどうして写真につながっていくのか一向に見えてこないかもしれないが、私はブロックチェーンという発想は2つの物事に似ていると思っている。1つは遺伝子。遺伝子タイプをたどっていけば、我々は「人類で最初にミトコンドリアを獲得した女性の居場所」を生物学的に知ることができる。(ちなみにその話を壮大に(ちょっと過剰に)物語化したのが、瀬名秀明の『パラサイト・イヴ』だった。)

DNA塩基配列を解析して系統樹を作り出すことで、人類の足跡をたどれるのだ。我々の体には、遺伝子を経由して、これまでの歴史の全てが保管されている。破棄され、書き換えられ、進化の途中で捨てられた臓器の成れの果てさえ、我々遺伝子の中に眠った状態で保管されている。ある日それが必要になる瞬間まで、我々は自分の内側に、過去のすべてをたたえて次世代へと橋渡しするのだ。生物はすべて、過去から未来へとつながる長い「鎖」の一部を担っている。我々一人一人が、いわば人類全体の「保険」なのだ。その意味において、「人の命はひとりひとり全て大事である」と、あの小学校の時にお題目の様に唱えられた理想論は、実は極めてリアルな意味で正しい。今の人類にとって弱点に見える遺伝子さえも、将来のどこかで人類を救う鍵となるかもしれないし、それはフィクションではなくて、極僅かな可能性であっても、生きる全ての人々が、人類全体を救うヒーローになりうるのだ。だからこそ、「ナンバーワンにならなくていい、元々特別なオンリーワン」と歌ったあの曲は、100%正鵠を射ている。

 もう1つ似ているものが写真だ。例えばLightroomを見てみよう。我々があるRAWデータに加えた変更のすべてが「ヒストリー」としてアプリ上で保管されている。またある段階でスナップショットを撮れば、1枚の写真の進化の中の一瞬を保管することさえできる。まるで人類の中に残されている遺伝子情報のように、Lightroomのデータは写真の「進化」を保管している。

 何を大げさな、と言われるかもしれない。でも写真とは、本質的に遺伝子的な存在だ。あるいは、歴史的といってもいい。1つの瞬間がそこに写真として存在するためには、原始地球の生命のスープの中から、現代にまで続いていく有機物の最初の塩基配列が発生しなければ、その光景は絶対に描かれなかったのだ。というよりも、そのような光景の連続性を「切り取る」ことによって、写真は逆説的に我々の世界が過去から連綿と続く「連続性」の中にのみしか存在し得ないことを証明する。だからこそ、時に1枚の写真が、時代の象徴として世界に流通し、世界に大きな物語を与えてきたのだ。

 そのような媒体としての写真は、おそらく未来のどこかでブロックチェーンともつながることになる。デジタルデータ化されたことによって爆発的な拡散力を得た写真は、未来のどこかでもう一度劇的に変化する。過去のすべての時間と光の「変化」を記録した「時空間の記録」として、写真はそのメディア領域を拡大することになるだろう。現在のブロックチェーンはそこまでのデータを保持できるほどの許容度がないが、量子コンピューターや新しい大容量メディアが開発されていくにつれて、「新しい写真」へと我々は近づいていくはずだ。

 そんな世界を、ある作家がすでに100年前に予感していた。20世紀初頭のフランスの作家、マルセル・プルーストが著した『失われた時を求めて』という小説だ。

後に20世紀の小説世界を支配することになる運命を持つ小説は、語り手の内的世界のすべてが、ある一瞬、1杯の紅茶から飛び出す。紅茶の中に落とされていた「プチット・マドレーヌ」が呼び水になって、主人公がコンブレーで過ごした記憶がよみがえる象徴的な瞬間が、今回の引用部分だ。

「そして、これが叔母のくれた菩提樹のお茶に浸したマドレーヌの味であることに気づくやいなや、(中略)全コンブレーとその周辺、これらすべてががっしりと形をなし、町も庭も、私の一杯のお茶からとび出してきたのだ。」
―マルセル・プルースト『失われた時を求めて第一篇スワン家の方へ』鈴木道彦(訳)、集英社、2006年、P.113-114

 本来はこの美しい文章のすべてを味わってほしかったが、プルーストが描くこの一瞬の出来事は、日本語版にして9ページも続けられる!9ページがある1つの現象に費やされる。さらに9ページで描かれた「過去」のすべてが、今度は1万ページの作品として展開される。このシーンは、固有の「記憶」や「記録」が何かの物事に象徴的な形で縮約されていることを見事に描き出している。小説が表すのは、1杯の紅茶の中にさえ1人の人間のすべての人生が入り込む余地があるということだ。それは1枚の写真にすべての人生の記録が宿ることと相似する。そうした「象徴的な」一体性は、おそらくブロックチェーンや分散的な履歴記録の技術によって、象徴ではなく本当の「データ」として現実化されていく世界がこの先やってくるだろう。

そういえば「君の名は。」も違う時空間に生きる2人が1本の「紐」でつながれる物語だった。新たなテクノロジーが写真という記憶の海を渡る力を与えてくれるかもしれない。

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