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2nd day: Chiangrai and Chiang Mai, Thailand

だまりがちになるのは路面の酷さのせいだ。

早朝4時から、タイ北部のチェンライという街を目指す。ほとんどミャンマーとの国境の町。チェンマイから距離にして190キロ離れている。

190キロ程度、日本ならせいぜい高速道路で2時間ちょいといったところだが、首都周辺こそよく整備されているタイも、地方だとそうはいかない。道路はいまだに整備中で、泥と小石と水でグズグズになった道が縦横を走っている。その一本をひたすら北に向かうのだが、そんな道でも我々の守護聖人である今回のドライバーMr. Bomb(爆弾氏!という名前なのだ)はお構いなしに 100キロくらいのスピード(体感)でぶっ飛ばす。自然、物理的な抵抗はすべてタイヤを通して我々の身体を直撃する。おいそれと舌をベロベロ動かして話そうものなら、手痛いしっぺ返しを地球から食らうというものだ。自然、我々もだまりがちになる。物理には逆らえない。

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沈黙していると、すべての風景が再び自分に向かってせり出してくる。現実の持つ圧倒的な重たさと過密さが、俺の思考のすべてを捉える。風景はすごいスピードで背後に飛んでいくというのに、細部は微分され、意識の中で境界線がくっきりしていく。俺は自分の気質はデジタルだという気がしていて、時々俺はもしかして、誰かが作り出した「世界を見るAIを搭載された猿の人形」なんじゃないかという気がするときがある。それは特に、こういうふうに沈黙をしているときに起こる。せり出してくる世界の近さに息苦しくなる。

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だからこそ、チェンライについて、白い寺や青い寺で、あっぱれなほどに生臭い商業主義的な宗教施設を見ると安心する。急に現実の重たさが希薄になり、人間の耐えやすく楽しい軽さが全面を覆う。俺はこの人間の愛すべき軽やかさが大好きだ。ミラン・クンデラはそれを「耐えられない軽さ」といったが、むしろその軽さが救いのように思える。バック・トゥ・ザ・フューチャーでドクも言ってたじゃないか。

「未来ではそんなに物が重いのか?重力に変化が起きているのか?」

そうだよ、ドク。2019年、地球は随分ヘヴィな場所になった。ドクがリビアの過激派(かげきは!テロリストなんて物騒な言葉もあの時代にはなかったよね)から、プルトニウムを盗んで1.21ジゴワットの電気を作っていたあの時代が随分懐かしい。だってジゴワットだって、俺の生きる2019年には存在しない単位なんだよ、そりゃ地球だって重くなるさ。

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チェンライの撮影は、タイの俗物主義と敬虔な部分とがないまぜになって記録されている。

お祈りしていようとなんだろうと好き勝手に写真とっても良いし、誰も口をつぐんで静かにしている気配もないのに、絶対に帽子を脱がなければならない。帽子絶対殺すマンが寺院の入口に何人かいる。親の仇か何かのように。

でも誰も撮影を咎めたりしない。大仏の前でポーズ撮って撮影してても何も言われない。俺の目からみたら随分こっちのほうが不敬に見えるのだけど、場所が違えば価値観が変わる。そもそも、日本人同士だっていがみ合っているようなヘヴィな時代だ。帽子絶対殺すマンと、大仏の前でポーズを撮って撮影する我々が共存したって何もおかしいことはない。

それは旅の醍醐味だ。自分の世界にたいして持っている知識なんて、ごくごく狭い時代の狭い地域にしか通用しない、いわば「誤解」と「偏見」の合いの子のようなものだと知ること。

なんでも知ったフリで強がり続けねばならぬ世界にあって、自分はここでは、というかどこでだって結局は土に還るただの肉塊だと知ること。それが旅の一番の醍醐味だ。コップンカップ、サワディーカップ。俺がここで知っていることのすべて。

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チェンライでの観光と撮影が終わったあとは、ラーメン食ったりコーヒー飲んだりしつつ、チェンマイに戻る

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チェンライで一番美味しいというヌードルショップ。ここでも「フォトオッケー?」と言いながら撮影してみる。ニコリとも笑わず頷きながらオッケーをくれたおばちゃん。ニーチェの深淵でも見つめているかのような深い眉間のシワが、ラーメンに向けられたものなのか、しきりにシャッターを切る俺に向けられたものなのかわからない。ここまで真剣に造られたラーメンなら、そりゃもう美味しいに決まってる。実際美味しかった。チェンライヌードルショップ。

でもおばちゃん、何十枚もシャッター切ってるうちに最後にはそれがおかしくなって、この顔からこんな顔に。

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いいっしょ。キュートでラブリーな笑顔だと思った。思い出深い写真。こうやってシャッターを無心に切っていくと、まずは仕事としてシャッターを切るようになった日本の時と違う、写真本来の楽しさを思い出す。ああそうだった、こうやって一枚切っては背景に出てくる写真に楽しい気持ちになってた頃あったなあって。旅は人に色々なものを思い出させる。

夜はランタン映え映えのお寺へ。

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でもその中には、仏塔にお祈りを捧げる地元の母娘が。「フォトオッケー?」と鸚鵡の様に同じセリフを繰り返して、その横顔を撮らせてもらう。知らない表情をたくさん見る旅だった。いや、知らないんじゃない。多分忘れた表情だ。

戦うこと、備えること、予期し対策を練ること、経済的効率性について考えること、SNSにおける立ち位置を考えること。俺の顔はいつからか怯えと疲れを無理やり薄ら笑いで塗り込めるような表情だけを浮かべるようになった。

張り付いたペルソナは、もはや自分の素顔と区別がつかないほどにめり込んでしまって、俺はもう自分の素顔さえ忘れそうになっていた。

自分の顔を取り戻す旅にしたい、そんなことを思う。

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旅の最後にはいい出会いがあった。

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タイと日本の2つのルーツを持つ写真家、野見山さんの経営するレストラン「チャオタイ」で2日目の夜を終える。野見山さんの朝日新聞の記事も素敵なんだよ。


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