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円周率10万桁を覚えると何が起こるのか(あるいは聖剣エクスカリバーはどこにあるのか)

この記事を沢山の人に読んでもらってるようで、嬉しく思います。

多分どこかにいる優しいアルファの方が紹介してくださったんじゃないかと推測しておりますが、その分を考慮に入れなくても、投稿以降、継続的にこの文章は読まれていて、noteというサービスの他のSNSとは違った、全体的にゆったりとしたシステム周りが気に入ってます。TwitterにせよInstagramにせよ、あまりにも「一瞬で消費する」っていう感じが強い場所で写真をだしていると、本当に「写真bot」みたいな気分になってくるのですよね。

そう、それはさておき。上の文章、内容は「いろんな専門分野を横断してつまみ食いするっていう行為自体が、新しい価値のレイヤーを生み出すかもしれないよ」ってことなんですが、今日は逆のことを書いておきます。簡単に言えば「一つのことをやり続けると、別の価値が生まれる場合があるよ」ということなんですけどね。その話をする前にちょっと脱線しておきますね。

********ここからしばらく脱線なので、読み飛ばして頂いても全然いいです*******

僕は自分の言ったことを自分でアンチテーゼするのが好きで、それはもちろんカール・ポパーの影響を受けているわけではなく、単純に頭の中で「逆の想定」を常にしているからで、そしてその「逆の想定」が同じくらいの強度を持っていることが常に望ましいという立場に立っているからです。

なぜそんなややこしい考え方をしているかというと、精神の独善性を回避したいからです。人間、ほうっておくと独善的な傾向を帯びるものです。特に歳をとって、ある程度人生を生き抜いてくると、それまでやってきた自分の経験や手法の、それなりの蓋然性というか妥当性みたいなものが証明されたような気分がして、人はそれに固執しがちです。そのこともあって、僕はできるだけ自分が作り上げたものをさっさと捨てたいという傾向があります。

よくRPGで、レベルがあがって最後のダンジョン攻略前にゲームをやめてしまったり、「信長の野望」で近畿を支配したあたりで興味がなくなってしまったりするのですが、それも同じ。何かを作り上げる過程は好きなんですが、出来上がったものを維持したり、それに安定したりするのが得意ではありません。自分自身の考え方でさえ、固定化されるのを厭います。

つまりは思考を相対化したがるんです。絶対的相対主義みたいな感じです。左右どちらも理解できるようにしておきたい。常に最善ではないにせよ、ある程度ベターな道を選びたい。たまに極端に振れるように見えても、その逆側にも触れることで、遠目で見れば一番バランスが取れている「思考の振り子」みたいな状態でいたい。独善的になる傾向を自覚しているがゆえに、フェイルセーフ的な精神のリスクマネージメントとも言えます。

******************************ここまで脱線でした*****************************

さて、脱線から回帰しましょう。第二の脱線もしようかなと思ったんですが、流石にそれではやりすぎなので自重します。そう、本題は、「一つのことをやり続けると、本来想定していたものとは別の価値の生まれる場合がある」ということです。

そのことを説明するのに、超巨大な本のことを考えてみます。本というと、みなさんが想定するのは、せいぜい縦横10センチ程度の紙で出来た物体のことを思い出されると思います。仮に、縦100メートル、横200メートルの本を作ったとします。そんなものがこの世界で必要かどうかは別にして、超巨大な「壁の巨人」が読む用みたいな感じの本です。その時、この本は我々ウォール・マリアの内側で日々を粛々と送るただの人間には、「本」というものの持つ本質を逸脱した「何か」へと、その巨大な物体は変質します。中身は例えばトーマス・マンの「魔の山」が書かれていたとしても、それはもはや「魔の山」という本ではなく、たまたま中身に「魔の山」が描かれている、「本に似てはいるが、決して本とは呼べない何か」へと変貌します。

物事にはこのような側面があります。つまり、その物質や事象が持っているある側面を極端な方向に振れさせることで、それが本来属している領域から逸脱してしまうという傾向です。巨大すぎる本は、もはや本ではありません。それは例えば「小さすぎる1mmのトンカチ」だったり、「おもすぎて人間では決して持ち上げられない500トンもあるダンベル」だったり、そういう物事です。その一部の異質な要素以外はそのままの特性を維持しているにもかかわらず、物事の本質自体が変異してしまいます。

ある領域の知識や技能にも同じことが当てはまります。我々は誰もがある程度「文字」を書けますが、例えば小さな米の表面に、ミクロの文字を書ける人がいますが、それはもはや我々が「文字を書く」のとは、本質的には同じはずなのに、違う技能として成立してしまう。そこに「価値のレイヤー」が生み出される。

知識もまたそうです。突き詰めていくと、ある瞬間、その知識はグロテスクな程の自律性を備えるようになる。我々は円周率が3.14であることを知っています。中には3.14159265359くらいまでは知っている人がいるかもしれない。でも、10万桁を覚えた瞬間、それはもはや「円周率を知っている」というレベルではなくなる。実際にそれを覚えた原口證さんには、wikipediaのいち項目が割かれているのです。

数字を覚えるというその一つの巨大な専門性において、かれは「価値のレイヤー」を生み出しています。

つまり新しい価値のレイヤーを生み出すという方法は、冒頭の記事で書いたように「いろんな専門分野を横断する」という方向もあれば、「ある一つのジャンルに特化して、余人が及ばない領域までいっちゃう」という方向性もあります。ただ、両方共に言えることが一つあって、それは「独自性」が大事だという点です。

個々人の価値が認められやすくなっているからこそ、大きなウェブという領域内においてはその価値は他の誰かがすでに専有した場所である可能性があります。もちろん、その場所で戦うという選択もありですが、先行者というのは大体強いものです。例えば円周率の話に戻りますが、今、円周率を5万桁覚えたところで、多分あまり見向きもされません。すでに10万桁の人がいるからですね。でも一方、円周率1万桁を言えるアイドルがいたとすれば、それは5万桁を個別で覚えるよりも独自性が高まるでしょう。そういうことです。さらに言えば、円周率を5千桁言えるアイドルがフィギュアスケートが出来て将棋の腕は5段でした、とかなるとかなり強くなってきます。

自分が「一つの方向性に特化していくほうが強い」のか「いろいろな複合技で戦うのか」というのは、キャリア形成における大事な分岐点の一つなので、フリーの人や若い人には、いろいろ考えてほしいなと思います。ただ、「思わぬ掘り出し物の武器」は、「寄り道」の方にあるものですが、大体「エクスカリバー」とか「ラグナロク」と言った「闇をはらう聖剣」は、寄り道をしないで進む王道の先にあるというのも、これもまた参考にすべき比喩かもしれませんね。「はかぶさの剣」を作るか「ロトの剣」一本で戦うか、悩ましい選択です。

あ、そろそろこの記事のタイトルの答えですが、もうおわかりですね?円周率を10万桁覚えると何が起こるのか。答え:Wikipediaに収録されるです。つまりは偉人認定を受けるほどの価値が生み出されたということです。

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