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写真と文学 第四回「多重露光、あるいは時の積層としての写真」

世界は多重露光で出来ているのではないか。いや、それは言い過ぎだとしても、世界を見ている我々の視線、あるいはその記憶は、多重露光的に構成されているのではないか。そんなことを思ったのは、マーク・トウェインの自伝的旅行記である『ミシシッピの生活』の中のある一節を、大学生のときに読んで以来のことだ。本の中でトウェインは、かつて自らが蒸気船の「水先案内人」として船頭したミシシッピ川を、20数年後に小説家として下りながら、変わり果てた多くの風景を、それでも楽しそうな筆致で描いていく。その筆が急にノスタルジックな様相を帯びるのは、彼の故郷であるミズーリ州のハンニバルに帰ったときのことだ。

「わたしの頭のなかにあるこの町とはほかでもない、二十九年前に初めてここを離れたときのままの記憶だけである。そのときの町のようすは、いまも一枚の写真のようにわたしの中に鮮明に残っている。(中略)わたしは新しい家々を見る─この目ではっきりと...しかし頭のなかの古い絵はくずされない。れんがとモルタルの家並みを通して、わたしの目はかつてそこにあった、消えた家並みをありありと見ているのだから。」
―マーク・トウェイン『ミシシッピの生活(下)』吉田映子(訳)、彩流社、1994年※1、P.192

 大学生の頃の私はカメラ自体触ったこともないし、ましてや「多重露光」という言葉など知る由もない。それでも私はこのトウェインの故郷を見る眼差しのあり方、そしてその記憶の働き方は、それほど不自然には思えなかったのだ。ただ、このような物の見方と記憶の働き方に与える単語を当時の私は持ち合わせておらず、私の中に強い印象だけを残して15年の歳月が経った。それから初めてカメラを触り、そして「多重露光」なる表現手法があることを知って、あのとき自分が読んだトウェインの一節は、まさに多重露光のような表現だったのだなと、あるときふと思い出したのだった。残っている記憶に上から焼き付けられる新しい風景。2つの風景はどちらもその形を維持しながら、重ね合わされて、まるで1つの風景として成立しているような、そんな表現。そんな記憶。カメラもまだ発明されたばかりの時代に、すでに多重露光的な画を先取りしていたようなトウェインの表現力に、私はひどく驚いた。

 この経験を通じて、私の世界の見方はそれ以後いくらか変容を被ることになる。我々に見えている世界は、それを見ている人間の思いや記憶が重なって成立しているのではないのか。その場で微動だにせず存在している目の前の三次元の景色は、実は四次元の時間軸上に何千回も繰り返し再現されそのたびに変容していく、いわば「時間の堆積物」として存在しているのではないか。言葉にすると極めて難解に見えるこんな世界の見方を、写真は「多重露光」という形で実に簡単に、そして深みを持った表現として、すでに成立させていたことに34歳の私は驚愕したのだった。それは、たった1枚の写真を通じた時間旅行のようなものだからだ。2つの時間軸を1枚の「瞬間」へと重ね合わせることで、写真は2つの時空間をつなぎ合わせることができるのだ。

 時間旅行で思い出す作品といえば、やはり私のような40代前後の読者はバック・トゥ・ザ・フューチャー(以下BTTF)を真っ先に思い出すのではなかろうか。まさに1つの時間軸の中に過去と未来の因果の全てを織り込んだ大傑作だった。もちろんBTTFよりも正確に書かれたり、壮大だったり、深遠だったりするSF作品はこの世界に多数ある。だが、BTTFほど「時間」が交錯することの楽しさ、面白さ、物語としての痛快さを生み出した作品は、他に存在しないように私は思う。そのBTTFだが、プロット自体が「過去」での行動が、現在や未来に「重ね書き」されていく模様が描かれていく、まるで「多重露光」のような形式を取っている。主人公のマーティは「現在」の時点では極めて冴えない家族に囲まれて、未来もあまり明るくなさそうな状態で物語は始まるが、「過去」での大活躍をきっかけに「現実」が修正されていくシーンが描かれる。物語の最初でファッションも化粧も冴えない、疲れきった顔を見せていたマーティの母親は、物語のラストではイケイケの美魔女に大変身している。その2つが読者の記憶の中で多重露光のように重ね書きされることで、映画は最高の物語効果を生み出しているという寸法だ。

 そうした物語の「多重露光」的な様子は、物語の中で1枚の写真が重要な役割を果たしていることからも裏付けることができる。「現在」から「過去」へとデロリアンに乗ってタイムスリップしたマーティは、友人の科学者ドクに自分が未来から来たことを告げようとして、「1984年」という未来の年号が書かれたシャツを着ている姉や兄の写った写真を見せる。だがその写真を見たドクは「下手な合成写真だ、兄さんの方の髪が消えかかってるじゃないか!」と切り返す。この写真はその後映画の中で重要な役割を果たす。つまり、過去での行為がマーティ家の未来の存在そのものを消しかねないということを証明する、映画的に重要な小道具として使われることになるからだ。マーティの持つこの写真自体は「多重露光」の写真ではない。しかしそれでもなお、このBTTFにおける写真の使い方は、1つの示唆を与えてくれる。それは、写真、あるいは世界は「瞬間」の蓄積の中に存在しているということだ。そしてその一瞬一瞬は、他のどの瞬間とも違い、過去と未来のど真ん中において、永遠の時間がずっと重なり合ってつながりながら存続していることを示唆している。つまり、一瞬の時間に、過去と未来の全てが、本質的に重なり合わさっているのだ。その折り重なりを写真の中に見出したのは、哲学者ヴァルター・ベンヤミンだった。彼は写真論の古典である『写真小史』の中でこのように語る。

「画面の目立たない箇所には、やがて来ることになるものが、とうに過ぎ去ってしまったあの撮影のときの一分間のありようのなかに、今日でもなお、まことに雄弁に宿っている。」
―ヴァルター・ベンヤミン『図説写真小史』久保哲司(訳)、筑摩書房、1998年、P.17

 ベンヤミンの鋭い分析から我々は理解する。多重露光をするから、写真の上に複数の時間が写し込まれるのではない。そもそも現実という時間は、過去と未来の間に「多重露光」的に存在しているのだ。だからこそ、過去が書き換わったら、マーティの持つ「現在」の姿がまるごと書き換えられてしまう。時間の連続性の中にある一瞬を切り取るからこそ、その写真は、時間が過去から未来へとつながっていることの証明になる。一瞬の世界を写し取る写真は、永遠の時間をその内側に包含しているのだ。我々が写真にのめり込んでしまう理由がそこにある。

*註
オリジナルの原稿はデジタルカメラマガジン2017年10月号に掲載です。


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