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写真と文学が結びつく場所(あるいは、僕にとっての「コンブレーのマドレーヌ」)

昨日の夜、ちょっと今年の写真を振り返る必要があって、この夏の写真を見返したら、案の定花火ばかりでした。僕が写真を撮る意味と目的の原点は地元の花火と桜だから、そうなるのも仕方ないんですけれどね。

何度か同じことを書いているんですが、僕は地元のとても大きな花火大会を、小学校の時に第一回大会を見て以来、ずっと見続けています。一回目に見た時の記憶は僕の人生の原体験の一つで、僕にとっては人生の最も暖かい記憶に結びついている大事な経験の一つでもあります。その記憶の暖かさをずっと追い求めているようなところがあります。

ところで、20世紀初頭のフランス小説に『失われた時を求めて』というすごく長い小説があって、僕はわりと好きなんですが、あの小説の最初のほうにマドレーヌを紅茶と一緒に食べたら、忘れたと思っていた記憶がみるみるうちに蘇るというシーンがあるんですね。そのシーンはフランス人らしく、というか作者のプルーストらしく、ねちっこく巧妙に準備されていて、読者を焦らすサスペンスもすごくうまく準備されている。

我々自身経験があるように、記憶を思い出すのは大変なものです。特に失われつつある幼いころの記憶を思い出すのは至難の業。40ともなると、子ども時代なんてもはや南北朝時代くらい遠いむかしの話に思えます。

『失われた時を求めて』の中でも、重要なマドレーヌの記憶を思い出す直前、語り手は一度その「喉まで出かかっている記憶を思い出す努力」を放棄しようとしています。どうしても思い出せない。そんなもんですよね。語り手も諦めて、輝きの予感の潜む記憶を、闇の中に葬ろうとする。日々の灰色の生活へと戻る。灰色と言うのは、ある意味では安心です。それが続く限りは、面白くはないにせよ、しんどいこともないでしょうから。そんな日常に戻る。我々自身が多分気づかないうちにやっているように。

でも、真実のひらめきがまさに今消え去ろうという瞬間、語り手の内側に閃光のように過去の記憶が噴き出してくる。それはこんなふうに描かれています。有名な「コンブレーのマドレーヌ」の引用。原文でもこの文章はほぼ一文で書かれています。

そして、これが叔母のくれた菩提樹のお茶に浸したマドレーヌの味であることに気づくやいなや(なぜこの思い出が私をこれほど幸福にしたのかはまだ分からず、そのわけを見つけるのはずっと後のことにしなければならなかったとはいえ)、 たちまち叔母の部屋のある、道路に面した古い灰色の家が、芝居の書割のようにやってきて、その背後の庭に面して両親のために建てられた別棟に、ぴたりと合わさった(それまで私が思い浮かべていたのは、ただほかと切り離されたこの別棟の一角だけだった)。またその家といっしょに町があらわれた、朝から晩まで、いろいろな天気の下で見る町、昼食前にお使いにやらされた広場が、 買物をしにいった通りが、天気のよい日に通った道が、あらわれた。そして、ちょ うど日本人の玩具で、水を満たした瀬戸物の茶碗に小さな紙きれを浸すと、それまで区別のつかなかったその紙が、ちょっと水につけられただけでたちまち伸び広がり、ねじれ、色がつき、それぞれ形が異なって、はっきり花や家や人間だと分かるようになってゆくものがあるが、それと同じに今や家の庭にあるすべての花、スワン氏の庭園の花、ヴィヴォンヌ川の睡蓮、善良な村人たちとそのささやかな住居、教会、全コンブレーとその周辺、これらすべてががっしりと形をなし、町も庭も、私の一杯のお茶からとび出してきたのだ。(プルースト『失われた時を求めて』第一篇『スワン家の方へ』 (鈴木道彦訳)、集英社、P113-114)

この箇所を初めて読んだのは大学二年生の時でした。フランス語の原典購読の時間で、この小説の原書"À la recherche du temps perdu"を、フランス語の教授とほとんど個人レッスンのようにして読んだのです。ゆっくりとした時間の流れる、とても懐かしい良い時間でした。古い校舎には濁った窓から黄色い光が差し込んでいて、まるでそこだけ数世紀前から時間が止まっているような教室で、僕ともうひとりの学生とフランス文学の教授の三人だけでした。

原書のこの部分の文章は入り組んだ迷路のような極めて複雑な構文になっていて、それはまさに僕らの記憶の入り乱れ方そのもののようで、文体自体が内容とシンクロする形で描かれていることを、教授の解説で知りました。そしてまた、この部分で出てきた「閉じられた紅茶カップという空間から、時間を超越した個人の記憶の全てが飛び出してくる」という小説の叙述形式が、全7冊、何万ページにも及ぶ小説構造全体で維持される空間とも共鳴していて、Longtemps(長い時間)から書きだされた小説は、最後のdans le Temps(その時の中で)で終わりを告げていきます。記憶と時間について語る本の全てが、「時間」という単語を契機にして始まり、終わる。その全てが「本」という閉じられた空間の中で完結するんだよ、と、最初の授業で教授は静かに語ってくれました。とてもとても印象的な記憶の一つ。僕は小中高とうまく学校に馴染めなかったのですが、大学時代は素晴らしい教授たちに出会えて、良い時間を過ごせたという想いが強いです。学問は楽しいんものなんだと知ったのも、大学の四年間でした。

ずいぶん「花火」の話から脱線したように見えるかもしれませんが、つながってるんです。

プルーストがマドレーヌを食べてコンブレーを思い出したように、僕は毎年の花火を見ることで、あの34年前の暖かい記憶に少し戻っていけるような気がするんです。僕にとってそういう対象はもう一つあってそれは家の近くの桜並木で、極端なことを言えば、僕はあの花火とあの桜さえ撮っていられたら、他のものはそんなに撮れなくても大したことはないと考えている節さえあります。

人間は、記憶という時系列上に生み出される幻想に依存することでアイデンティティを形成しています。個々人が撮る写真、書く物語、描かれる風景、歌われる詩は、それがどのようなものであったとしても、その人間の「幻想」の断片が埋め込まれています。だから僕は、あんまり人の写真や創作物を簡単に悪く言いたくないんです。もちろん、好き嫌いというのはあるんですが、嫌いなものをことさらあげつらう必要は、よっぽどのことがない限り表立ってなされるべきではないと思うんですね。どんなに相容れない嫌いな人間であっても、その人それぞれが大事にしている物語には敬意を払いたいと思うんです。

少なくとも写真が表現を担う芸術形式である限り、その空間内部にはあらゆる形の人間の想いが多様に表現される空間を尊重したいし、その場所を死守したいと思っています。多分、そのような「人間の想い」が集積する場所という意味で、僕は写真と文学を同じような空間としてみなしているような、そんな節があります。

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