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人生をハックする必要なんて(あるいは人生はブラの上を進む)

Life goes on Braという歌詞を歌ったのはビートルズで、このbraが何を意味するのか諸説あってはっきりしないそうです。ポール自身がインタビューでブラジャーのbraと言ったとかいう話がネットに出てるのですがソース辿れず。村上春樹がエッセイの中でやはり同じことを言ってます。あるいはbraはbroで、つまり呼びかけとしてのbraであるだとか、こちらもやっぱり諸説あるみたいです。

このいい加減な感じが好きなんですよね。確定の正解をご存知の人がいたらぜひご教示いただければと思いつつ、まあ世の中知らないで置いとくほうが良いかもとも思いつつ、どちらでもいいかと。

というのが、今回の基本的な内容なんですよね。つまり「ぬるさ」とか「ゆるさ」って、改めていろんな領域において大事よねっていう。

もう一つ脱線しましょう。大学院に入りたての頃の話です。僕は文学研究なんてのをやってた人間なんですが、春学期のある授業で読んだのはエドガー・アラン・ポーの「群衆の人」という短編でした。簡単にプロットを言うと、主人公が人混みの中で気になる老人を見つけて、それを追いかけ、最後にその老人の顔を見て終わりっていう、完璧に「なんじゃそれ」の感じの小説です。あまりにもわからなすぎて、先生に「これってどういうことなんですか?つまりは都市における人間の疎外とか喪失とかがテーマの話ですか?」って言う感じで、「正解の解釈」を確認しようとしたんです。そしたら先生は「そうとも考えられるだろうねえ」的な感じの受け方で、同時にいくつか別の解釈も話をしてくれました。その解釈自体はもう忘れちゃったのですが、その解釈のうち、どれが「より妥当なのか」というのを聞いたときの先生の返事が印象的でした。

「どれも妥当。」

眼前から霧が晴れたような感じがしました。

先生はその後、特にその返事の真意を言ってくださらなかったのだけど、つまり文学というのは、あるいは小説というのは、「正解」とか「一言でまとめられる解釈」なんてものはないんだということなんだろうと僕は思ったのでした。

よく「この小説何を言ってるかわからない」というようなことを言われる人がいるんですが、それは当たり前のことで、「よくわからないこと」を「よくわからないですよね、でもなんだか気になるんですよね」ということで、その「よくわからなさ」をテーマ化して、言語化して、芸術化したのが文学とか小説とか呼ばれるジャンルなんです。明快にわかっている答えがあるなら、人は論文とか記事を書きます。小説でしか書けないからこそ、人は何千ページもの文字を書き連ねます。その行為を通じて、作家は自らの「わからなさ」に精一杯向き合う。

だから高く評価される小説になればなるほど、とっつきやすいストーリーとかが見えなくて、一見すると「何が面白いのか全然わからない小説」ばかりが集まってるのが文学というジャンルなんですが、だからこそ面白いというのもまた文学です。例えばハーマン・メルヴィルの長大な『白鯨』という小説は、「鯨学」と呼ばれる、正しいのかどうか怪しげな鯨の知識を満載にした章が延々と続くんですが、それは基本的にはストーリーの起承転結のどこにも関わってこない「豆知識集」みたいな部分です。その部分を読まなくっても成立しちゃう。それなのに、やはりその部分も含めての『白鯨』という小説。

で、大事なのは、文学とか小説の良さって、そういう「え、なにこれ」って部分、飛ばしちゃっても良いんですよね。良い小説であればあるほど、そのテクストは読み手に全て開かれている。一部分を読んでもいいし、全部を読んでも良い。読んだものをどんなふうに解釈してもいい。人生がそうであるように、余剰部分と余白部分に溢れているのが「よい小説」だと思うんです。勿論、稠密に作られた構造度の高い、必要な場所ばかりの小説というのもあるにはあるんですが、多くの場合数千ページレベルの小説になると、メインプロットが占める割合はごくわずかで、それ以外の部分はいわば「与太話」とか「無駄話」にあたる。でも、その「与太」と「無駄」が、どういうわけかその小説全体の深みを作り出していく。脱線すればするほど、人生そのものが豊かになっていくかのように。そう、時々はブラの上を走ることだってあるのが、人生の面白い部分のはずなんです。でも、そういう人がいれば、たちどころに燃やすのが現在の世界というわけです。いま僕らが生きる社会は、「意味の余白が許されない世界」です

ライフハックという言葉が一時期流行りました。今もまだ流行ってる?もう一般ワード化したんでしょうか。まあとりあえずそういう言葉をよく目にする時期がありました。

元々はアメリカのITのギーク用語だったらしく、狭義にはコンピューターを使って仕事を効率よくさばく、みたいな意味だったのですが、現在は人生全体を効率化する、というような感じで、人生のあらゆる細部を「ちょっと良くするテクニック集」みたいな感じで使われていると思います。

いろんな場所で、いろんな人が、いろんな形で人生をハックしてるんです。でも、そこまで人生を効率化する必要なんて、そんなにないんじゃねーのかという気がしてるんです。

僕自身、どちらかというと合理的で合目的的な思考をするタイプの人間なので、例えば「酢が血管に良い」と聞けば、「酢ハック」をして、「酢醤油」を使って、「酢醤油生姜」とかをサラダにかけて食べちゃったりするタイプなんですが、ある時、どこを向いても我々の人生の細部が「ハック」されきっているように見えて、「こうするのが良いですよ」ばかりがあふれるようになって、どうも窮屈さを感じるようになりました。トマトジュースさえリコピンの抗酸化作用が健康にいいとわかって、大好きだったトマトジュースを飲むのが苦痛になってしまいました。リコピンの抗酸化作用!!ワオ!

全てを効率よくすることに血道を上げるということは、つまり我々は、「人生」というこの本来longでwindingしているroad(長いくねくね道)を、資本主義的な生産性向上の概念に資するために、できるだけ真っ直ぐにならすことにほかなりません。そしてその生産性が落ちることに強迫観念を感じるほどにまで、我々の心はハックされている。

老いを遠ざけたり、欠落を忌避したり、劣悪を排除したり。世界と人生はハックされ、そのにこやかで効率的で健全な世界観にそぐわない、そこから剥がれ落ちていく存在は不可視化されていく。見えないものとして抑圧される。それは多分最終的には「死の隠蔽」として機能するのでしょう。

本題から徐々に外れつつありますね。文学系の教員の悪いところです。いや、全員がそうとは言いませんが・・・

ビートルズに戻りましょう。彼らが適当にbra!と歌ったように見えるあの歌詞、多分、ほんとに適当だったような気がするんですよね。life goes onと歌った後、一音節分が余ってしまって、しゃーないので「bra!」と言っちゃったみたいな。それは何一つ明快な意味合いが与えられていないにもかかわらず、なぜかあの部分がオブラディ・オブラダという曲のクライマックスとして機能してしまう。その不思議さ。

小説だって、突き詰めれば6つしか(あるいは31個しか)パターンが無いという話もあります。

突き詰めたプロット=「骨格」の部分は、結局のところ骨でしかありえず、文学も音楽も、一瞬のうめき声や、窓から漏れる光を描写するその目線が、豊穣な肉を作り出します。19世紀後半、マーク・トウェインが『ハックルベリー・フィンの冒険』で、「夜がおそいような匂いがした」と書いた瞬間、世界に新しい感性が生み出されたました。何一つプロットには関わりのない場所で、現代まで響く一つの声が生み出されたんです。

でもライフがハックされていく時、その肉は「脂肪分」としてこそぎ取られているような気がするんですよね。だって夜が匂ったところで、血管はおそらく若返らないからです。

勿論、僕のようなおっさんは余計な脂肪分が体にも精神にもくっついているので、それを適度にこそげ取る必要はあるんですが、そんな必要もない、十分にスマートな若い人たちが、まるで自分の骨を削るかのように自らを「ハック」するのに勤しんでいるのを時々目にします。大学の教壇に立っていると、「目的意識」がきっちり出来上がり過ぎている学生さんが最近はとても多いです。大丈夫なんかなあと心配になったりと、もう完全にこれ「親戚のおっちゃん」的な気分なんですけどね。

トンカチは、壊れた時にもっともその「トンカチ的性質」が異物として浮かび上がってくると言ったのは、確かマルティン・ハイデガーだった気がします。人生もまた、壊れた瞬間に、初めて本来の異質性を顕わにするのかもしれません。でも、壊れた人生を元に戻すのは、トンカチを元に戻すよりもよほどしんどいものです。ハックしすぎて、どこを折っても致命傷になるほど痩身になるよりは、余計な脂肪は多少あったほうが、「肉を切られても骨に至らない」ってことになるような気が最近はしているところです。

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