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感染の徹底的排除にしか目が向かなくなることの危険性

新型コロナウィルスはたしかに恐い。
が、正直なところ、私には、新型コロナウィルスによって世の中に生じる過剰な恐怖、猜疑心、嫌悪感のほうがもっと恐い。

それらは、ウィルスに感染する可能性の徹底的な排除ということを、何よりも優先されるべき絶対的な価値のように誤認させ、それ以外の考えや行動への否定や攻撃に駆り立ててしまう。

が、本来、当然のことながら、感染の排除だけが唯一絶対の価値というわけではない。それを際限なく追求しようとすることで別のリスクや副作用の恐れが出てくるのならば、それらにも目を向けて折り合いをつける必要がある。医療で言うところの「手術は成功しましたが、患者は死亡しました」になってしまっては意味がない。

すでにこうした点についての議論も出ている。
医師である森田洋之氏による、「人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?」といういささかショッキングなタイトルがついた論考。
https://www.mnhrl.com/corona-jail-2020-4-14/?fbclid=IwAR08H4admVacwUFCLINBJjpBH2H8t_5z-BJcxVs98I2IDi0oUO_CPvHZ3i4

また、劇作家・演出家の平田オリザ氏による、「『自粛取り締まり』的な雰囲気」がもつ恐さの指摘と、韓国の演劇界で具体的にどのような折り合いの付け方をしているかのレポート。
http://oriza.seinendan.org/hirata-oriza/messages/2020/05/01/7985/?fbclid=IwAR2ByNEThydN18oDF_E3iIk9hO2v3quIfIEj9LqjtwhVYmWgLeVOOt8jJfQ

日本赤十字社による動画「ウイルスの次にやってくるもの」では「恐怖」の問題に焦点を当てているし、
https://www.youtube.com/watch?v=rbNuikVDrN4
コロナに関して医学的な情報をまとめたこちらにおいてさえ、医師の武藤義和氏は、「みんなコロナしか心配していない」状況への懸念を表明している。
https://drive.google.com/file/d/1bZ1Del13I_z1reNz0eCIkQfZFNuMXO14/view?fbclid=IwAR1drElKqnDe6jNHvESo4MWBNMJQJouVLKoPhLXPKw6M7VwPAsNKzABdBNM

私が専門とする教育の分野でいくと、私が一番心配しているのは、今後子どもたちのなかに、他者に近付くこと(物理的にも心理的にも)に対する抜き差しならない不安や恐怖を抱く子がきっと出てくるであろうことだ。
自宅に閉じ込められ、外では人に近寄ると露骨に嫌な顔をされ、学校が再開しても互いの机を離して座らされたりといった経験をするなかで、今後、いずれさまざまな制約が解除されたとしても、同じテーブルを囲んで身を寄せ合っての話し合いにパニックになる子がきっと出てくるだろう。そうした子どもをわれわれはどう受け止めていけばよいのか。またきっと、「うちの子にこんな危険なことをさせて!」と抗議してくる保護者も出てくる。それにどう対処していけばよいのか。

正直なところ、私は、今盛んに言われているような、勉学の面での遅れというのは、そんなに心配していない。単なる遅れであれば、今までにもさまざまな事情による遅れの例で見られたように、取り戻せるはずだからだ(もちろん、それを可能にするための体制づくりは大切だ)。
けれども、本来なら教育活動の土台となるべき、人と人とが近付くということに拒否感を植え付けられてしまうと、そこからの回復には多大な労力を要する
これまで教育界では、「寄り添う」や「触れ合う」ということに(時にはいくぶんフワッとした)肯定的イメージが抱かれてきたわけだが、その価値が転倒してしまう恐れさえあるのだ。

私は、現状での感染予防やソーシャル・ディスタンシングが不要だなどと言いたいのではない。それらは、感染の爆発的拡大を防ぐために重要だ。
だが、その際にどんなリスクや副作用が生じ得るかには目を向けておく必要があるし、われわれが大事にしてきたはずの他の価値ーー経済的なものから、他者への信頼や寛容といった倫理的なものまでーーをどうやって引き継いでいくのかも意識する必要がある。

私が子どもの頃、子ども同士で「バイキンがうつる~! えんがちょ!」などとやりあっていると、大人からは厳しく叱られた。
今はむしろ、社会が、他者へのそうした接し方を助長する側にまわっているようにさえ思える。
われわれは、どんなふうに人と人とがかかわり合う社会を望むのだろうか。そのために、新型コロナウイルス(あるいはその後も出てくるであろう新たな感染症)とどう付き合っていけばよいのだろうか。
病気の得体が知れなかったところから徐々にその性質が明らかになってきた今だからこそ、あらためて考える必要がある。

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