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オンライン踊りとか、オンライン墓参りとか

 様々なイベントが中止となった今夏、代わりというわけではないが、各地でオンライン踊り(オンライン祭り)が行われている。「各地」というほどの「土地性」があるのかどうかは分からないが、見てみると意外と楽しそうで、オンライン踊りに参加した人は、充実した表情を見せている。

 「踊り」という表現技法は、身体を用いた表現技法としては最もシンプルなものである。逆に言えば、身体に深く紐付いているわけで、その「踊り」が、身体性を大きく捨象するオンラインコミュニケーションにおいて、ちゃんと成立することは面白い。

 と思ったが、考えてみれば、「祭り」と紐づく「踊り」とは、対面のコミュニケーションを旨とするものではない。かつて「踊り」とは、「祭り」という機会に、神さまに「奉納」されるものだった。すなわち、目に見えぬ存在に対して、豊穣や安全といった人間の願いを伝えるためのコミュニケーション手段として、「踊り」は存在していた。こう考えれば、仮に対面で「踊り」を共有することができなくとも、「踊り」が持つ願いを共有することができていれば、「踊り」という表現技法が持つ力は、それなりに引き出すことができるのだろう。


 お墓参りをした帰り道、「オンライン墓参り」は可能なのだろうか? と疑問が浮かんだ。「オンライン帰省」なるものは言われているようだけど。検索してみたら、墓参りの代行サービスなんてものもあるようで、感心してしまった。ビジネスチャンスはどこにでも転がっている。

 宗教観とか、個人の事情とか、それぞれに置かれている環境が異なっているため、一概にどうとは言えないが、少なくとも自分にとって「オンライン墓参り」は成立しない。そもそも、宝くじを買うとき以外は無神論者の自分にとって、墓参りそのものは、大きな意味を持たない。記憶に残っているのは、夏の暑い日に車でお寺に向かい、桶に水を汲み、お墓を掃除して、お花等を献げ、手を合わせ、そしてどこかを虫に刺される、一連の身体的な記憶である。一応、ご先祖様には毎回何かを報告したり、願ったりはしているはずなのだが、その記憶はまったくない。

 結局、私にとって、墓参りとは、ご先祖様を偲ぶという精神活動ではなく、「墓参りという身体活動」に重点があるのだろう。いや、「その身体活動こそ、ご先祖様を偲ぶことなのだ」とも言えるが、そこまでいくと「鶏が先か、卵が先か」といった話になってしまうので立ち入らない。ともかく、私にとって墓参りとは身体活動なのであって、身体活動を伴わない墓参りは成立しない。そのため、身体活動を伴わない「オンライン墓参り」は、私の場合は成立しないのだろう。


 夏は、日本にとって過去やご先祖様とコミュニケーションを試みる特別な日々である。お盆がそうだし、戦後においては、8月6日広島、9日長崎、15日終戦、9月7日沖縄、と節目となる日が続く。黙祷を捧げ、さすがの私でも平和を願うのだが、やはりこれも目に見えぬ存在とのコミュニケーションである。規模が大きいからか、式典のようなものは別にして、こうした黙祷はオンラインやオフラインといった議論にはならない。平和への願いに、土地性はそこまでないのだろう。


 「踊り」には、一挙手一投足に意味がある。「祈り」にも、同じ様に意味がある。なぜ、仏教においては手を合わせ、キリスト教においては十字を描き、イスラム教においては礼拝をするのか。

 オンラインか、オフラインか。身体性は必要か、必要でないか。これらを考えるときに、今一度、身体活動(身体の活動様式)が持っている精神的意味に立ち返ると、そのヒントになるかもしれない。伝統的な身体活動(身体の活動様式)とは、神さまのような超越的な存在や、願いや祈りのような精神活動に、つながろうとする(On-Line)企てそのものであるはずなのだから。


 

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