人権の大切さ



目次
人権がなぜ大切か 
フェミニズム 
アメリカのフェミニズム 
日本の人権と海外から輸入された「人権」 
日本に起きている人権の捉え方の問題

まとめと提起 

人権をその場に保つには 
人権の成り立ち 
提起 
政治に関して 
具体的な目標 
国家の捉え方の一つ(余談として) 
まとめ 

  


人権がなぜ大切か

それは抑圧の歴史があるからである。国家や権力者から、弱者は常に虐げられてきた。その起こりはキリスト教からの脱脚。


 ざっくりした解説になるが、この文章が読者の皆様にとって、日本において誤解に基づき乱用されがちな言葉である「人権」その乱用に対する免疫となってくれる事を願いつつ書いていきたい。


 まずなぜ大切なのか。それは抑圧や弾圧で簡単に虐げられてきた「人」である私達を、守るための武器であり盾だからである。
 その概念の起源は欧州でありキリスト教ではあるのだが、巡り巡って世界が基礎的に共有しようとする概念となり、尚且つ日本もその概念を採用したものである以上、それを理解する事にはとても現在においてとても大きな意義が生まれている。

 この本ではいわゆるおざなりな人権の解説ではなく、著者である私の解説や観点を主にしていく。人権に関心を持った方は是非更に知識を深めて頂ければ幸いである。


 人権の基礎とは抵抗権である。もう難しい。これを簡単に言えば、王様などの支配者がおかしな政治を行うなら市民はそれに抵抗してもいいんだぜというものである。
 こうした考えが生まれた簡単に解説すると、欧州の国家の基礎が基本的にキリスト教会の権威を背景にしていた事(王権神授説)と、そのキリスト教が様々な諸派に分かれて論争や混乱が起きた事、そしてこの二つのはざまで政治の混乱に多くの人々が悩まされていた事の3つにその原因を分ける事ができる。

 王様などの支配者が頼りなく悲惨な政治が行われていても、庶民は抵抗する権利を考える余地はなかった。教会という絶対的権威と結びつき承認するつまり神が認めた王という存在に、抵抗する理屈が庶民の中に存在しなかったのである。
 しかしそのキリスト教の捉え方自体が次第に分かれ初めた。

 カソリック(いわゆる伝統派)とプロテスタント(宗教改革という出来事から生まれた派閥。「抗議」の意)の2つがある事は多くの方がご存知だろう。そこから更に(厳密にはそれより前に様々なキリスト教派閥があったが、人権の説明のため便宜的にこのような説明をする)様々な派閥に分かれていった。分派という。
 ピューリタン(清教徒)という名前を学校の授業で聞いた覚えがある人は多いかと思う。プロテスタントに属する派閥だ。

 このピューリタンがイギリスでやってくれた。イギリスは17世紀当時イギリス国教会というどちらかといえばカソリックに属する教会を擁していた。そのイギリスで当時力を持ち始めたのがピューリタンである。
 イギリスは既に議会を設立してはいたのだが、その議会に対するイギリス国教会を背景とした王室の大きな影響は続いていた。
 王権神授説を頑なに固守する王(リチャード1世)とその周辺が政治的失敗を繰り返し、その国王派と議会派(ピューリタンが多くを占める)に分かれ軍事的対立にまで発展する。その最中、ピューリタンは庶民にビラを撒き始める。政治の実情を庶民に訴える事で支持を集めたのだ。それにより庶民の政治への関心が駆り立てられ、いわゆる庶民の政治活動が活発化する事になる。暴動なども含む激しいものだった。
 支配された庶民から活発に政治へ介入する庶民への変化が見て取れると思う。
 議会派と国王派の対立はやがてイングランドを二分する軍事的対立へと発展する。後にイングランド内戦と呼ばれるものである。この内戦が今のイギリスに様々な影響を禍根も含め残すのだが、詳しくは語らない。
 議会派は勝利し国王の処刑にまで至るのだがその後はリーダーによる独裁へと進む事になる。そのリーダー(オリバー・クロムウェルという)の死後、ピューリタンの一派が国王の息子を再度国王に迎え再度イギリスは王政を迎える事になる。
 しかし王室が再び議会にこれまでのような影響を持つ事はなくなった。
結果としてイギリスは海軍大国の道を開きその後の大英帝国の繁栄へと続いていく。

 イギリスの民主主義と議会政治の成立も興味深い。国王が上院(貴族院)に登場した際、黒杖官といういわゆる宮殿からの使者が下院(庶民院)へ議員を呼び出しに向かうのだが、一度は扉を閉めて拒否をする。国王や貴族院からの独立を意味するこの振る舞いは、ピューリタン革命時にリチャード1世が兵を引き連れ庶民院議員を逮捕しようと襲撃した出来事から生まれたものである。逆に国王処刑の経緯からは、王が議会に訪れる際には下院議員は一人宮殿に人質として滞在するという慣習が生まれた。
 各国の議会や人権の概念とはこうして歴史的な経緯に基き成立しているので、日本は遅れているだとか海外ではどうだからと言って慌てる必要はないのである。


 そしてピューリタンがやってくれたというのにはもう一つ意味がある。
 ピューリタン革命の数年前になるが、イギリス国教会の中にも宗教改革を目指すピューリタンは影響力を持ち始めていたのである。その改革の仕方から更に派閥が複数生まれていたのだが、その内の国教会から分離しようとする一派(分離派と呼ばれる)は弾圧を受けていた。
 その一派が弾圧を逃れるためアメリカ大陸へと渡る。彼らはイギリス人として入植し、法を制定し発展していく。やがて発展した13の植民地はイギリスに対する独立戦争を経て勝利し、アメリカ独立宣言を制定する。
 これがアメリカ合衆国の成立の流れである。
 アメリカとは宗教の自由を求めた一派が成立の基礎となった国なのである。

 この13の植民地の1つであるヴァージニアで制定されたヴァージニア権利章典が、後のアメリカ独立宣言やフランス人権宣言に影響を及ぼしている。
内容は人の生まれながらの平等や、出版言論の自由、信じる宗教の自由、不当に拘束されない権利や、軍隊の文民統制、世襲議員の禁止や行政と議会の独立など複数に渡る。
 重要なのは王や権力者などではなく個人とその権利を基礎とした国家の成立を唱えたところにある。そしてその制定自体には本国に対し、個人の権利を基礎として抵抗するという意味も含まれている。

 人権て具体的でしょう?

 日本国内でよく扱われている「人権」という言葉は、余りにもこうした具体的な背景をないがしろにしている。
 こうした背景を知ることによって、表現の自由がどのように権力や権威的な抑圧を拒否するものなのか、個人の権利がどのような意味を持ちそして成立のために何と戦ってきたのか、キリスト教の影響の中で人々があがいて成立させたその実質がいかにして普遍性を持つものなのかが読み取れてくるだろう。知った人が扱えば人権という言葉にきちんと深みが生まれるのだ。

 短いながら必死になってまとめてみた。
この内容をもって安易に人権を叫びながら他人の権利を否定する人々と戦って欲しい。その戦いとは、人権と言いながらその意味を個人の欲望のために他人を操ろうとするものへとすり替える嘘から、個人の尊厳(内心の自由)を守るという戦いである。

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