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夏至であり沖縄戦の渦中である今〜今は戦後か戦中か〜

春分、秋分と合わせて夏至、冬至も祝日にしたらいいのに。

そもそも国家に「いつ休め、いつ働け」と言われるのは気に食わないが、どうせ祝日を組むなら自然のリズムに即したものにしたほうがいいよね。

国家の都合で、民が死ぬ。

自宅療養せよと言われ、家から出れず死産、流産した女性の言葉は表に出にくい。

しかし今年も昨年も一昨年もそういうことはあった。

避難するなと言われ、無理を押し切って避難した女性が、地元に残った人々に非難されるというエピソードは、数え切れないほど存在するが、表に出すことは難しい。

もともとは日本ですらなかった沖縄が、日本に占領され、支配され、その後、米軍によって上陸され、大量に殺戮された。

学徒が動員された、という言葉では、リアリティを感じにくい。

小学生、中学生、そういう、見た目、もろ子どもじゃん、という人々が、屈強な米兵と対峙している写真を見て、ハッとする。


夏至という印象より、米軍が上陸してきて、大量に島民が殺された時期として、僕は今の時期を認識している。

体感している。

今も肌身にそれを感じている。

たった77年前にこういうことが起こっている。

6月23日は、正午に黙祷をする。

祈りのタイミングを合わせることは大切なことだと思うから。

でも同時に、ある将校が自決した(といわれる)日を節目にするだけでなく、あの子が死んだ日、あの人が死んだ日、にも手を合わせたい。

8月6日や8月9日だけでなく、トリニティサイトで初めて核爆発が起こった日や、ビキニやエニウェトクやカザフスタンで核爆発が起こった日や、アイヌやネイティブアメリカンが大量虐殺された日に、黙祷を捧げたい。

我々の中に、こういった暴力性、そしてこういった暴力を忘れよう、ないものにしようとする特性をそのまま内包しながら、日々、手を合わせたい。


写真について:1945年、各地に急造の収容所が作られた。「急造の収容所」という言葉から連想するものとは程遠い、ただバラ線が貼られただけの野外に、大人も子どもも囲われた。その数、数十万人。こういうことをしようという思想、発想、実行力は、今も世界の中にくすぶっている。デジタル管理社会は、どこまで行くかわからないと思ったほうがいい。こういうことを平気でできるメンタルは存在する。「今の時代にはありえないよ」というバイアス、暗示をかけるより、こういうことを二度と起こさないようにと祈るほうを選びたい。

写真:沖縄県公文書館、毎日新聞、琉球新報


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