生と死の関係についての哲学的考察
現代において、人々が自分の生命や他者の生命を軽んじたり、健康を損なう行為に走ったりすることが多い。これらの行動の背景には、「いつまでも生きられる」という生に対する驕りがあると考えられる。そして社会では、死は忌まわしいもの、汚いものであるとされ、死についての話題がタブーとされる風潮がある。だが、このような風潮こそが、人々の生に対する驕りを助長し、結果として生命を軽視する行動につながっているといえよう。
仏教においては「生死不二」という概念がある。これは、生も死も同じであり、いずれも喜ばしいものとみなす教えである。つまり、輝かしい生を送ることが、同時に輝かしい死を迎えることであり、その先には次の生が続くとされる。この哲学から考えると、「素晴らしい生を送る」ことを望むのであれば、まず「どのような死を迎えたいか」を考えることが重要であるということになる。仏教でも、死を意識することによって初めて生の価値がわかるという教えがある。
精神医学者のエリザベス・キューブラー=ロスは、死を目前にした人々へのインタビューを通して、死に際して多くの人々が「もっと自分に正直に生きるべきだった」「他者にもっと優しくすればよかった」と後悔することを発見した。彼らは、社会的地位や名声、常識に囚われ過ぎず、他者と親切に関わりながら生きるべきであったと語る。これは、文化や国を問わず、人々が共通して抱く後悔である。このことからも、死に直面することを通して初めて自分の生き方が問い直されることがわかる。
つまり、死を正面から考えることが「どのように生きるべきか」を知る第一歩であると言える。死を知らなければ、私たちの生は死んでいるも同然なのである。現代社会においては、「死の教育」を通じて、早い段階から死をリアルなものとして捉え、その上で「どのように生きたいか」を逆算的に考える機会が必要である。これによって、人々が生命の重みを認識し、若者の自殺や自傷行為、他者の生命を軽んじる行動を防ぐ手助けになるだろう。
私自身も16歳のとき、閉鎖病棟で一時的に「死」を身近に感じる経験をした。それ以降、死は常に隣にあるという意識を持ちながら生きてきた。だからこそ、一日一日を必死に生きており、今日死んだとしても悔いはないと感じている。人間は「締め切り」があると必死になる性質がある。これは「どのように死ぬか」を考えることが「どのように生きるか」を真剣に考えさせるのと同様である。
また、私は「美しい死は美しい生と一体である」というテーマを写真を通して表現しようとしている。見る人がどのように受け取るかは自由だが、もしこの観点から作品を見ていただけたなら、生命の本質について何かしらの気づきがあるかもしれない。
最も重要なことは、あなたの生命そのものである。たとえ死にたいと思ったとしても、あなたの生命は最期の一瞬まで生きようとするはずだ。生と死は永遠に連続しており、今日を自分らしく、正直に、強く、幸せに生きていく必要があるのだと、私は強く思う。