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2020年夏、釜爺に感情移入した。

わたしが初めて『千と千尋の神隠し』を見たのは小学3年生の時だった。両親ともにジブリ作品のファンだったこともあり、公開後すぐに家族で映画館で鑑賞した覚えがある。

千尋に入れ込んでいた、9歳の自分。

映画を観てからしばらくは、「引っ越すことになったらこんなふうになるのか」だったり「わたしは食いしん坊だからついごちそうに目が眩んで一緒に豚になってしまうかも」など、「もしもわたしが千尋なら」を妄想して遊んでいた。リンみたいなお姉さんがいたらいいなと思ったし、雑巾はわたしの方が早くかけられそうだぞ、と自分にしか見えない虚勢を張ったりもした。湯屋で悲しいことがあったら、かわいい黄色の鳥の神様(オオトリ様というらしい。)に抱きつきにいったらいいのに、など湯屋でのリラックス方法まで考えてもいた。

ちなみにいちばん好きなシーンは、ハクが千尋に向かって「千尋が私の中に落ちたときのこと。」みたいな川に落ちた時のエピソードを話しているところ。これは今も昔も変わらない。

公開終了後に発売されたVHSは、(たぶん)限定版を購入した。付録でついてきたハクのおにぎり(プラスチック製)は、きっと実家のどこかに大事にしまわれている。

言葉選びが斬新なクリエイティブ爺、こと釜爺。

そんな折、ジブリの人気作が映画館で上映するというニュースを目にした。上映作品は『千と千尋の神隠し』を合わせた4作。どれもすてきな作品ばかりだったけれど、当時千尋に自分を重ね合わせた自分が、いま何を感じるのかすごく気になって、迷わず『千と千尋の神隠し』を観にいった。(後日、『もののけ姫』も観にいった。こちらもすごくよかった。)

感想としては、とてもすてきで改めてお気に入りの作品のひとつであることを実感したのだけれど、千尋よりも釜爺や、湯婆婆のお姉さんである銭婆に見入ってしまった。千尋に共感して冒険を共にする感情はほぼなくて、例えば千尋が初めて釜爺に会うシーン。ススワタリが金平糖を食べるシーンがかわいいとかもあるけれど、ハクが湯婆婆のところへ直接千尋を連れて行かずに釜爺を挟んだことに意味はあるのかな、とか。千尋のことを「わしの孫」といってごまかす斬新さもすごい。

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ハク竜が銭婆の印鑑を飲み込んで、暴れながらボイラー室に落ちてきた時も、薬湯の素が仕舞われている大事な棚がズタズタになっているにも関わらず、献身的に関わる釜爺の姿は、とてもかっこよく見えた。

銭婆の献身。

銭婆は、自分の大切なものを盗んだハクを許して、悩む千尋を元気付けるために自分の時間を惜しげも無く割いている。子どもの頃は、行き場や目的をなくしたカオナシをそばにおいて、役割を与える銭婆の姿は失礼ながら滑稽に見えたのだけど、見失いがちな自分の存在意義や、目的意識を再認識させる人物として登場しているのかもしれない、といまは思う。

そういう存在って、ついつい当たり前のものとしてその恩恵を教授してしまうことがあるけれど、見返りなく自分のことを大切にしてくれる存在が、どんなに貴重で大切なものであるか、今一度振り返りたい。そして、もがいて前に進もうとしている若者を後押しできる存在に、いつかはなりたい。(まだまだ絶賛もがいている側の人間です。)

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スタジオジブリ作品の場面写真の提供に、感謝の意を込めて。

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