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【デザイン思考で生きる日常】真剣だからこそ笑顔でオシャレに楽しく!

大企業を辞めて独立起業することはある意味、安定を捨て、敢えて不安定なリスクに身を置くことでもある。まして全米でも最も生活費の高騰するカリフォルニア。自らの能力を最大限発揮した仕事で食い扶持を稼がねば家族共々路頭に迷う。大袈裟に言えば日々が命懸けの連続。しかし起業して7年目となる現在、傍目から見て私にそんな必死な雰囲気は感じられないかもしれない。むしろメチャ楽しそうに見えるという人が多いw。なるほどと思う。それはたぶん命懸けだからなんだと。例えば「努力」「真剣」「深刻」というと日本ではなんとなく必死な悲壮感が漂うけれど、本来それは間違っているんじゃないかと思う。

■努力とは歯を食い縛ることだろうか?

いずれにしても私の場合、傍目にはいつもリラックスして楽しそうに見えるらしい。しかし本人なりの苦労や努力はしている。少しだけあるのはデザイナー的な捻(ひね)り。努力は自分の能力を超えた目標などを必死にやり遂げるようなイメージだけれど、私の場合、努力は難しいことや面倒なことを「どう楽しめるかを考えること」に費やされる。これは良く考えると純粋なデザイン思考。例えば面白く無さそうなことにどう面白さを見出すか。

大変な仕事を大変と感じないようにする方法を考える。好きではない仕事をちょっと好きになる視点を見付ける。習得の難しい技術をいかに楽しく身に付けるかを考える。だから私の中で努力とは「歯を食い縛ってひたすら頑張る」ことではなく、むしろ逆で、ちょっとややこしいけれど「歯を食い縛ってする努力をしないためにする努力」なんだろうと思います。

■真剣さはアピールではない

特に集団や組織では真剣さや努力が周囲へのアピールとして機能する場合があるかもしれない。特に日本のような固有の集団的文化や風土がある場合、「アイツ真剣にやってない」と見られると叩かれたり、査定を落とされたり、別の組織から告げ口されたりする場合もあるでしょう。だからこそアピールとしての必死さや、ある種の悲壮感さえ漂ってくる。しかし、組織の中であれ外であれ本来はそんなアピールは要らないはず。むしろ真剣であればあるほどアピールは必要なくなる。

MLBで大活躍している大谷翔平選手を見ていると、圧倒的なパフォーマンスと満面に見せる笑顔で並外れた影の努力が消し飛んで見える。彼の場合も影で取り組む苛酷な鍛錬すら楽しめているかもしれない。チームメートと見せるお茶目でいたずら好きな一面や、球審の厳しい判定に憤慨してもすぐに気持ちをポジティブに切り替える姿勢などにも、彼なりのBeing Optimisticなデザイン思考が見える。かつて見たことがあるボーイング社の飛行機のキャビンをデザイン思考で検討する風景はオジサン達がふざけ合っているようにしか見えなかった(笑)。純粋な真剣さは、それが真剣であればあるほど楽しんでいるように見えるのでしょう。

Oakland Athleticsの本拠地、アラメダスタジアムで大谷選手を応援!

■社会課題にもオシャレに取り組む

何かと日本では、取り組みに“真剣さ”が見えていないといけないような空気がある。それらを取り締まる「~~警察」とかいう現象もそうでしょう。ベイエリアでは朝10時くらいにカフェで談笑する警官などを目にすることが良くある。警官だって同じ人間、お茶くらいするし、市民もそんな彼らの姿を見る方が親近感が湧いてむしろ信頼感に寄与しているが、日本ではなかなか受け入れられない。例えば深刻な社会課題に対する取り組みなども同様。

サーファーのメッカの一つ、Santa Cruzにホームレスガーデンプロジェクトという取り組みを推進している農場がある。サーファーやファーマーからなるNPOが主催、農場で10ヶ月間ホームレスの人々に農業のトレーニングを行うことで自活を促す。この農場、エントランスから展示即売場、イチゴ摘みの体験コーナー、Downtownにある店舗やオリジナルのジャムなど商品のパッケージもどれもこれもオシャレで可愛らしい。深刻な社会課題に対する取り組みさえお洒落に、魅力的に行うことで賛同者を増やす。これもデザイン思考の知恵だと感じます。

Santa Cruzのホームレスガーデンプロジェクト&ストア

■死と隣り合わせだからこそ楽しい

経験で言えば、命懸けであればあるほど日常の重みや豊かさは増す。手応えも遣り甲斐も充実する。楽しく実践する工夫に、「今日も生き残れた!」という充足感が明日への喜びへと繋がる。そういえば(視点異うけれど)Red Bullのエックスゲームや、最近流行のパルクールなどもまかり間違えば即、命を落としかねないけれどやっている人達はやたらと楽しそう(笑)。当たり前ですが人間いつかは死を迎える。その意味では誰もが死と隣り合わせに生きている。しかし社会や集団、組織やメディアはそんな死の存在を日常から消し去っている。むしろ死というものを近くポジティブに感じることができれば、日常はより楽しく、より豊かに感じられるかもしれません。


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