見出し画像

(10) 経済活動促進策、ようやく始まる。


 神谷町駅周辺を行き交う人々は、もうマスクをしていなかった。6月になって気温も上がったのもあるが、ウィルス感染者は全国で1桁台となっていた。5月の連休明けの感染者増が懸念されたが、2月に抗体検査を撤廃し、全国各所の検査体制をPCRで統一し、都市部住民の一斉検査を行った。感染者のカテゴリー分けに応じた収容施設を用意して、専門の医療グループで各地の感染者の対応に当たった。これが功を奏したと言われていた。現在、出入国は各国でほぼ同じ状況となっていて、南米、アフリカの出入国はまだ停止。EU、北米、アジアはビジネス入国は認めるが、PCR検査結果が出るまで用意した施設で待機となっていた。不幸中の幸いなのだろうが、日本はワクチンに頼らずとも、昨冬を乗り切った格好となった。
結局、感染者数が減少した理由は、感染抑止に成功した国に模倣したのが全てとなった。ウィルス対策の陣頭指揮を取った越山厚労省副大臣は、時の人として賞賛された。感染症対策のスペシャリストとして認知が広がると、春以降は各国の感染症対策のチームが越山のもとへ訪日し、教えを乞うた。
「富山モデル」を採用しただけ、と本人は謙遜したが、破綻に突き進んでいた都市部の医療体制と、感染者の命を救った鬼神の如き働きは誰もが認めていた。国を絶望の縁から救い上げたという声も、記事やSNSで数多く見られる程だった。厚労省のイメージを刷新した陰の功績も高く評価された。
感染者が1桁になっても、彼女は旗を下ろすのを拒否した。専門の医療団は一旦解散し、日本海側の各病院へ帰任となったが、台湾、NZのように感染者をゼロにするまで足を止めてはならないと熱く語り、各自治体の対応の維持を訴えた。半年後、また冬が来る。人類はコロナをまだ封じ込めていないと言い続けている。医療行為や感染対策で、医師や厚労省の肩書を持つ連中が数々の俗説を流したことも今回の教訓だった。政府の見解ですら、政府の専門家ですら間違っていた。それを越山の意見が全てと国が定め一本化した。有象無象を新厚労省が論破し、越山と意を一つにした事で秩序が戻った。 新日本政府の危機管理能力がようやく機能したのだ。

そんな彼女にも息抜きは必要だ。料理好きの彼女は、ほっくりっく社のオープンキッチンへ通う時間が増えていた。議員宿舎の台所で一人で作るより、みんなで作っている方がいいらしい。越山は店舗の衛生管理のアドバイザーでもある。ほっくりっくのウクライナ、ロシアからの輸入品の検疫体制の視察を口実に、全国各地の検疫体制を、感染学の観点から見直すのが、次なるミッションと見定めていた。「冷凍食品に感染物質があったのではないか?」と中国で報じられたこともあり、輸入食料品の検疫を重点に分析しようとしていた。「ウイルスは人や動物だけが運び込むものではない」と仮説を立て、万が一の為に備えようと彼女なりに考えた。「想定されるものを全て掲げ、対策が優先する事項に取り組む」内閣の危機管理法でもある。感染症対策責任者が、冬が来る前に優先すべきと判断したのが、検疫だった。

神谷町本社のオープンキッチンに越山も加わり、新商品の開発を行っていた。北海道、根釧台地に放牧した牛で、1ヶ月放牧した初回輸入分の3歳牛の出荷が始まる。出荷に伴いサンプルの牛肉で新メニューを考案していた。
中国やEU内で姉妹店となるバーガーショップのメニューに無いハンバーガーを考案し、HookLike全店で売り出す計画だった。上場1か月で本社の社員数も5倍の40名となっていた。シフトに該当する社員は1階の朝店舗に出て、それ以外の社員は事務作業を行い、バイトさん達がやってくる午後に店舗から離れ、商品開発や各店舗との打合せ、会議をしていた。商品開発の際には上海の北陸公社とネットで繋いで、中国市場での反応も視野に入れながら、意見しあっていた。ネットでは匂いや味が共有できないのが難点だが、後日上海側でレシピと動画通りに調理することで、情報の共有をしていた。

「ねぇ、ハンバーガーじゃなくてもいいんじゃないかな」杏が突然言った。

「ちょっと。ここまで来て何言ってるの?」 玲子が怒った

「ん、ごめんね。このお肉をね、ちょっとスライスしてみない?さっと焼いてサンドイッチにしたり、バケットの切り込みに入れるの。だってさ、私達カフェなんだもん。ハンバーガーショップじゃないでしょう?」

「面白い。それ、やってみようよ。お肉が美味しいんだったらパティにする必要はないかもしれない」リモートで繋がっている、上海北陸公社 総経理の志木さんが言った。

「私、切ります!」家が肉屋さんだというお嬢さんが、見事にスライスしていく。新人社員が感心して眺めていた。

「肉の厚さを3種に変えて見ました。社長、味付けはシンプルに塩胡椒でいいですか?」

「照り焼き風と、わさび醤油も試してみない?」越山厚労省副大臣もその気になっていた。

「では、もっと切りましょう・・」またスライスを始める。他のメンバーがてりやきソースを作り出し、越山が鮫の皮でワサビを丁寧に擦り始めた。
最近入った新入社員達が、呆然と先輩達の動きを見ている。ものの数分で段取りが出来ていく。コンロではフライパンを温めているし、食パンとバケットを焼き始めている人もいた。
途中から、お茶を煎じ始めている。先輩社員といっても4月に入った人達だが、手際の良さに感心していた。無駄がなく、統率が取れていた。

「では、製作!」杏が言うと、味付けをされた肉が2人の焼き手の手によって焼かれていく。冷蔵庫から様々なレタスやオニオンが出されて、カットされてゆく。焼きあがったパンが待ち構えていた。瞬く間にサンプルのバケットサンドとサンドイッチが出来上がった。

「さぁ、皆さん、実食しましょう。席に座って〜」杏が先に座った。

全員が齧り付くと同時に、ひっくり返ったような、裏返ったような声が部屋中に響いた。こっちの方がよっぽどカフェらしいと言うことになった。
新商品が呆気なく決まった。

ーーーーー

ウラジオストック港で香港海運スワイヤ・社の動物輸送船に牛が乗り込んでゆく。10日掛けて所々で休養しながら、ウクライナから運ばれてきた牛だった。2日置きに105頭がやってくる。7月に入ったら牛の搬送だけがお休みとなり、その分穀物や加工食品等の物量が増える。涼しくなった10月から、動物輸送を再開する。夏と冬の輸送を避けるのが目的だった。秋は羊の輸送テストも始まる。とにかく動物に優しく接するように心がけていた。お陰で牛も素直に従ってくれ、船にいそいそと乗り込んでゆく。今回の航路は北海道ではなく、初めて北陸の能登半島を目指す。専用の囲われたエリアに放牧される事になっていた。今までは北海道、釧路港のみだったが、暫くは能登半島の輪島港で牛の検疫テストとなる。動物検疫官は釧路から輪島に移動するので内容自体は同じだ。また、同じ列車で運ばれてきた糧食類を満載した運搬船は、富山港へ向かい、ほっくりっく社の倉庫へ運び込まれ、ほっくりっくの物流センターから全国へ、パンと共に配送されてゆく。

放牧は、近いうちに沖縄諸島も試すという。
北海道に送った牛は既に1500頭を超えるが、未だに具合が悪くなった牛は居なかった。初期の大型生育牛の市場への出荷がそろそろ始まるとも聞いていた。これで日本産の牛になるというのだから ズルいよな、とフィリピン人の船員達が話をしていた。

ウクライナの牧場では、子牛たちの出産ラッシュが続いていた。3月頃から徐々に始まり、丁度ピークを迎えていた。この牧場はソ連時代の集団農場から続いている大牧場で、今年だけでも2000頭近くの出産を予定してた。近隣の牧場をあわせると赤ん坊だけでも2万頭近くなる。ロシア向けの輸出の停止の影響で暫く減産が続いていたが、市場に日本が新たに加わって、増産要請がやってきた。ようやく運が向いてきたなと仲間内では持ちきりだった。秋からは一歳クラスの牛の出荷も始めるという。

牛の生育環境の向上を目的として畜舎では最新の設備も備わり、牛の飼育は万全の体制になっていた。作業完了も大きく変化し、牛にも人にも優しい牧場へ生まれ変わった。日本の北部の農場と、同じ環境を目指したと言う。

ーーーー

今月早々にウクライナの農場に入りした日本の技能実習生のベトナムとインドネシアの60名は、あまりの土地の広さに面食らっていたものの、5分割した農地の一つに十勝産小豆の種を撒き、現在は農地の一区画にジャガイモの種芋と、薩摩芋、そして甜菜の苗を植えていた。

休みは交代制で週に2日ある。殆どが街へ出て、中には街で泊まってくる者も居た。技術指導者として宿舎に同居しているJA職員は、各自の給料でもあるし、良からぬ風俗通いまで取り締まることはしなかった。各人の判断に任せていた。
もともと、ロシア側の農地へ30名が行く予定だったが、契約が完了したのが最近となり、植え付けの時期に間に合わなかった。それで一旦全員でウクライナ入りとなった。近々、小麦の収穫の手伝いに合わせてロシア側へ向かう。そこで現地で生産計画を考案して、畑を耕してから、ウクライナへ戻ってくる。秋に小麦の種を蒔く為だ。ロシア側は今年は全て小麦で行く方針として、ウクライナは小麦以外の栽培を行う。
結果的に双方の農場で60人づつは最低でも必要ではないかと、JAの職員たちは話し合っていた。その人数だと集団作業で管理しやすく、農場の規模から言っても適切な人数だと判断した。それでも、あと30人は増やしていいかもしれない。もっとも宿舎となるアパートメントを建てる必要があるが。
北前新党はその報告を受けて、120名の第二次隊の選定に取り組んでいた。それも直ぐに埋まりつつあった。ウクライナに行っているチームから「とにかく広い、農機を運転してばかり居る。それに野菜がとにかく美味い。物価は安くて、任地手当もあっていい事づくめ」という趣旨のラインが日本の技能実習生に届いていたからだ。その為に応募者が殺到し、チームの選定に苦慮した。日本側のメンバーが採用枠に入りたくて、頑張ったからだ。これまでの60名に合わせて更に120名が居なくなれば、今度は各国立大学の農場の作業者が手薄になる。
その為、NZ首相との会談後、インドネシア訪問中の首相がジャカルタに寄り、農業技能実習生の派遣の依頼をし、今月末のインドシナ3カ国の訪問では、ベトナム、カンボジア、ラオスの3か国首脳にも要請する方向で進めていた。また、日本政府のウクライナ農場の評判が動画で紹介されていた影響で、日本の若者からも「行きたい」と言う声が届いていた。

また、月初に技能実習生のウクライナ入りに同行したモリが、日本企業と協力会社のウクライナ企業と工業団地に視察に向かい、23の工場の着工を決めた。23のうち5社が日本企業で、18の工場はウクライナの企業とモリとの合弁事業だった。操業開始はこの秋を予定していた。ウクライナ企業が、日本企業の採用も請負い、工場労働者の面接が始まっていた。
同時に、この農場の夏の「日除け」となる太陽光パネルと、それを支えるフレームの製造が大阪の電機メーカーの工場で始まっていた。とりあえずは植えた2/5の面積分にあたる小豆と芋の為のパネルだが、それでも莫大な量になるので、メーカーに取っては特需となった。まだ5分の3残っているし、ロシア側の農場分もある。

「ほっくりっくコーポレーション」は、こういった各国の食料生産、流通の全てを傘下に収めようとしていた。
5月中旬に東証マザ・ズに上場した際には、モリが最初に手がけたカフェ、パン事業という前評判と、中国人民解放軍御用達という看板に注目が集まり、株数を制限した背景もあるのだが、いきなり26800円を超える株価でスタートした。しかし、プルシアンブルーの7割を占める主要株主は、誰も株を手放さなかった。上場と同時に上海支店の「上海北陸公社」の新事業として、海外流通部門を立ち上げると発表した。インドのタ・財閥から購入したEU内のスーパーマーケットの改変に合わせて、北欧に新店舗をオープンすると宣言した。5月末はノルウェー・オスロでオープンし、6月はスウェーデン、フィンランドに大型店舗を出すと報じた。
記者会見に来ていた記者が「スーパーマーケット?」と首を傾げたが、オープンしたオスロ店が大人気となった。食料品価格が高い北欧で「ロシア並の価格」で商品食材が提供され、客が殺到していた。入場規制を取り入れ、ネット抽選に当たった人から優先に店舗に入れるように調整した程だった。
スウェーデンとフィンランドのオープニングスタッフも、オスロ店の開業に合わせて修行を重ねており、近日中に月末開店のストックホルムと、ヘルシンキへ旅立つ予定だ。
この活況を見たノルウェー政府が対策に乗り出し、オスロ郊外の用地を幾つかを日本に提示して、店舗建設が始まるというオチまで着いた。同時に、商品配送部門がノルウエー内の他資本のスーパーへ商品を提供する契約が纏まった。3つのスーパーチェーン店への商品配送が来月から始まる。
EU内の20店舗のスーパーも、EU内の印僑向けの店舗の様相から、取扱商品の変更により一新し、客層も変化して売上が倍増した。お陰で「上海北陸公社」の売上が、母体のほっくりっく社を上回るという珍事が生じていた。上場1か月で株価が3万円を超え、東証二部への鞍替えを検討し始めていた。主要株主が株を手放さないのは、この次なる上場の為だった。

ほっくりっく社の2つ目の支店となる、ウクライナ・キエフにある「HookRick Kiev Coopolation」は、モリの協業企業ガスプロム社との食料流通共同事業の成功により、現地雇用者の採用を続けていた。日本人スタッフも新たに3人追加され、5人でマネージをしていた。同じフロアに居るプルシアンブルーテックとディフェンダの社員にも協力を仰ぎながら、モリが進めている食品工場建設のフォローを担当していた。
全部でアメリカ資本18社、日本資本5社の工場が建設中だった。プルシアンブルーとほっくりっく関連だけで、キエフに日本人村が出来るのではないかと囁かれ始めていた。

北欧のスーパーはまだ部分開業だった。閉鎖しているフロアはフードコートフロアとなる。米国系ファストフード3店とウクライナ料理のピロシキ、ボルシチ等のテイクアウト店を2店。HookLikeCafeの開店準備も、ストックホルムとヘルシンキ店のオープンに合わせて進められていた。

プルシアンブルーの上場と、ほっくりっくの東証2部への昇格が東証内での話題になるのも当然だった。ほっくりっくは、巨大スーパー、食糧商社となろうとしていた。いずれ国内にも出店するのではないかとまで噂され始めていた。プルシアンブルーは航空機と自動車の生産増で、日本の部品産業を活性化させた。
2社の動向に注目が集まったのも理由がある。何しろ、ヨーロッパはまだ停滞から脱出したばかりだった。経済も低迷したままだ。そこへ安い食料品や車が押し寄せてきたのだから、飛びつくのは必然だった。

ーーーー

 石垣島の市長さん一行に、出迎えられる。
MOSの設置場所は宮古島も奄美大島もそうだが、空港の隣の海が有力候補地となっていた。懸念は太陽光パネルによる太陽光の反射だ。パイロットさんに眩しくないかどうかだが、滑走路に沿うように並べれば大丈夫との専門家の見解だった。そう言われてもにわかに信じられず、自分で現地を見て考えるのと、幸がたまたま居るのでそれぞれの月日で、太陽の角度から見て反射が実際に起きる方向を計算してもらおうと思っていた。サチならあっというに算出してしまうのだろうが。

迎えに来ていた宿の送迎車で移動する。公務員の方々と同じ宿なので、それなりのお値段のお宿らしいのだが、これで十分だった。国会議員だからといって、高い宿に泊まる必要は無いと思うのだが、内閣府はやれセキュリティだ、大臣たる人が何を言ってると喧しい。
そこで今回のように官僚達と一緒に動いて宿を共にし、SPを断るという戦術を取った。南アやボリビア、コロンビアでは無い、ここは日本だ。自分の身くらい自分で守りますと啖呵を切って、もう数ヶ月が経とうとしていた。

ホテルのロビーにある喫茶で市長さん達と「スーツ姿」で打合せをしていた。志乃とサチは庭の先にあるプールで泳いでいる。全く何という理不尽な相反する構図だろう。

沖縄諸島部は1月に宮古島で選挙があって、ALL沖縄の候補者が当選した。他の島の首長は自・党推薦なので、「どうせ宮古に設置するのだろう」という下馬評が上がっているのを知っていた。なので、平等に対応することを首相が事前に表明していた。簡単な話だ。今後は全部ALL沖縄の候補者を当選させてしまえばいいではないかと胸の中で決めていた。それでも、ALL沖縄の意見に全て賛同している訳でも無い。

前政権が、石垣、宮古に陸上自衛隊の駐屯地を作った。そこにミサイル配備計画を打ち出したのだが、今年度は緊縮予算により導入延期としていた。この自衛隊配備計画自体に、ALL沖縄は反対を唱えているのだが、政府としては、まだ答えを出すのを躊躇っていた。今回は調査団の行動とは別に、島に駐屯している自衛隊の視察も行程に組み入れていた。

石垣市長にしてみれば自衛隊を向かい入れたので、必死だった。島が台湾、尖閣、中国の福建省に近く、西表島と合わせて最前線の島となる。沖縄諸島部でもそれなりに人口を抱える島だけに、自衛隊を受け入れた理由も十分理解できる。それが故に判断が難しかった。そこで自衛隊を訪問し、装備の説明を受け、駐屯した隊員達の声を聞きたいと考えていた。何しろ防衛大臣ではないのでハードルは多少は低いだろう、本音が聞けるかもしれないと考えていた。

市長のお話を伺い、お帰りになられた所で自分の部屋に入り、スーツを脱いでラフな格好に着替えた。
防衛論議は難しい。それに、ミサイルともなると沖縄だけの問題ではなくなってくる。ミサイル設置をジャッジするにもルールも、基準も、そして意見も多種多様だった。
実は、閣僚の中では意見は一致しているのだが、その最終判断を預かる格好になっていた。「何故、防衛大臣ではないんですか?おかしいでしょう?」そんな事を言ったのは確か一週間前だった・・

窓の外には石垣港が見える。港に散歩にいこうと、外へ出ることにした。

ーーーーー

ニュージーランドが日本の海上太陽光発電を検討し、諸島国家が追随している情報は、中国内にも影響を及ぼしていた。香港政庁とマカオ政庁が申し合わせた上で、中南海に導入検討の申請をしてきた。中南海は悩んでいた。福建省からもアモイ沖の島で計画しているとの情報が届いていたからだ。確かに厦門や香港には諸島部があり、設置可能ではある。

中国内務省は、技術的な優位性はそれほどでもないだろうと、洋上太陽光発電の自主製造の検討を始めていた。日本の独壇場にするには歯がゆいものを感じていたからだ。イランでの油田での実験も近々始まり、且つ、中東各国も検討中との話も聞こえていた。
日本はインドの製鉄メーカーと電気技術者と、マレーシアの石油会社との協業で対応していた。太陽光パネルも日本製だ。そこには中国企業の参入の余地はなく、その上アイディアには国際特許が掛けられていた。特許料も、さほどの額面でもなかろうと、ジャカルタの大使館員にチモール島の現地の模様を映像と写真に収めさせて、それを元に製造の検討をさせていた。
特許など、かなぐり捨ててでも製造してしまう、中国らしからぬ態度とも言えた。それも相手がモリだからだ。面子を潰そうものなら、何をしてくるか分からない。

それでも進めるしかなかった。今月末に日本の首脳がインドシナ3国へ訪問する。その目的は分からないが、ベトナムは採用を内々に検討しているのではないかと見ていた。プルシアンブルーが買収した航空機を、ベトナムとインドネシアが買うと表明している流れから見ても、両国が日本との結びつきを深めようとしていると判断していた。
更なる懸念は、インドと日本との結びつきだった。製鉄会社で協業し、電気技術者を派遣し、自動車のOEMに、EU内のスーパー事業の売却と、特定の財閥との結びつきを強めている。インド側が儲かっているので、見返りに日本の航空機の購入となったが、他にもインドが何か買うのではないかと見ていた。太陽光発電か、それとも高速鉄道か、どれも考えられるだけに不気味だった。日本とインドの結びつきは以前からのものだが、これだけ大々的にカネが動いた協業は初めてではなかろうか・・・

内相は悩んでいた。国策である一帯一路上に、インドに加えて日本というプレーヤーが現れた。裏で采配を奮っているのはモリだ・・

「今月前半の自動車販売実績をお持しました。日本がトップに立ちました・・」担当者が持ってきたレポートを見る。EV車も、エンジン車も1位がミツ・シ、2位が五十鈴だった。まだ受注実績だけだが前代未聞だった。

国内メーカーを買えば、優遇措置を更に追加するというプランでも勝てなかった。レポートには「値段では勝っているが、やはりロングラン商品と、トータルの品質と安定性、なによりも試乗して安心感がある」と共通意見を纏めてあった。

北海道で試乗した外相が気に入り、購入を決めたと言っていた・・お前は中国の大臣だろう!と胸の中で叫んでいた。奴だけには負けん・・

「梁を呼んでくれ、更なる優遇措置を考えたいと」「畏まりました・・」 

これだけでは終わるまい。まだ、何かがある・・内相は半ば確信していた。

(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?