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2章 : Tea in the Sahara (1) I can't live, with or without you


  アメリカとイギリス政府、そしてIOCは、追求の手から逃れられなくなっていた。カイロ五輪が事実上開催不可となり、IOCには「時間が無い。一刻も早く、日本に開催を求めるべきだ」という声が寄せられていた。理事達が最も対話したくない国に、どの面下げて行けばいい、と言うのか。ロンドン五輪やロス五輪への道が同時に閉ざされ、「IOC会長や理事は即刻辞任すべき」「何をしてきたのか説明して明らかにすべき」と追求されていた。

アメリカ、イギリス政府は、当初は「前政権が考えたことで、甚だ遺憾だ」と逃げの姿勢だったが、エジプトの大統領や将校が、現職の大統領、首相、両国の軍部からゴーサインが出たので侵攻したと暴露したので、自分達が当事者だと再認識された。「調査中です。明らかになり次第、発表します」と時間稼ぎに追われていたが、逃げ場はどこにも見当たらなかった。

それぞれのマスコミがエジプト紛争の後ろに、国家間の大きな確執がある事に今更ながら気付いた。特集を組んで詳細な取材を行ない、検証すべきだと各メディアのデスクは判断し、各社でそれぞれのチームが結成された。
日本のネーション紙でも記者達が集められた。嘗て杜家の子息と関係のあった阿部記者も、チームに加わるよう打診され、悩んでから受け入れた。私にしか書けないものがある。デスクもそれが欲しくて、声を掛けたのだろう。
いつの日か、義父となるかもしれないと思いながら接していた男に、会いに行こうと阿部記者は決断して、取材チームに加わった。先ずはベネズエラだ。報道官や大臣に会いに行こうと、海外出張の申請を行った。

既に各メディアも記者にそれぞれの役割を与えて、取材を始めていた。IOCを辞任した理事達に会いに行く者。エジプトの五輪招致委員会やスポーツ省へ向かう者。国連監視団に誰が選出されるのか、NYへ向かう者。そして米軍の戦術分析官に、中南米軍の紛争時の検証の状況を聞きに行く者・・と分担して取材活動を始めようとしていた。
ベースとなるのは、中南米軍がこれまで担った紛争や対テロ組織作戦の数々となる。「殺傷しない軍隊」を組織し、そのトップに君臨しているのがモリ元大統領だと言うのは、周知の事実となっていた。中南米軍の軍事予算を管理し、兵器や装備類まで担当している。巨大戦艦や、潜水空母、ロボット操舵による各種兵器、そして大型海洋ロボットに至るまで、そのユニークな兵器や装備で、他国の軍とは異質の形態と陣容を誇っている。世界一と言われながらも、国防、防衛に特化して覇権は求めない。これもモリが統括している限り、揺らがないだろうと目されていた。

友軍でありながら、日本の自衛隊も、ロシア軍も他国と同じように、中南米軍の軍事力の分析に加えて、中南米軍の驚異的な情報収集能力を参考にして、各部隊配備状況の常時監視を怠らなかった。中南米軍が部隊を移動させた時に、何らかのイベントが世界で生じる可能性がある。今回の紛争に関しては、完全に出し抜かれた格好となってしまったが。

同盟国に対しても、情報は基本的に開示しないし、武器の提供も一切しない。そんな軍隊は中南米軍だけだった。

ーーー

北海道に旅行に出掛けたサミアとゴードンの義父母から、五稜郭の桜とともに写した写真がメールで届いた。「あれから、20年」と書かれている。そう、函館で日露平和条約が締結された。「桃園の誓い」調印時、先生はモスクワで悔し泣きをしていた。「あれは、俺の仕事だ」と。

予報は今日は夏日になると言っていたように、日差しが強かった。幸は夏物を出してタンスに仕舞っていた。一幸の夏服も大半が着られなくなっていた。この連休中に買っておかねばならないと、母として決断した・・

「ママ! スゴイよ!ロボットが戦車を持ち上げてるよ!」一幸が部屋に入ってきた。
「戦車を? あっ・・」幸がハッと気がついて、居間に走った。昨日からAIで映像解析をさせていた。砂嵐だけのを画像処理で省くプログラムを急遽作成した。火星でも使えるからいいだろうと思っていた。

「これだよ、すごい! ガンダムみたいだ!」

サチの涙が溢れた。いつの間に用意したのだろう・・PCを操作して、ロボットのサイズ解析を行う。涙目でキーボードがよく見えない。全長は21.5m、凄く大きい・・。
ロボットが戦車を地上にそっと置くと、戦車のハッチが開いて、乗組員達が我先にと出てきた。その先のロボットは、長いパイプを持って、地面に叩きつけている。砂がめり込んで、ドサッと湧き上がっているのだろうか?舞う砂は画面から消去したので写っていないのだが。戦車を軽々と持ち上げる位だから、物凄い音と振動が伴っているだろう。
衛星画像なので音声が撮れないのが残念だ・・複数台のロボットがそこかしこに居るので、サチは閃いた。あの壁を支えていたのは、このロボット達ではないかと、少し戻って壁の映像を表示させた。「わぁ、これは凄い・・」ズラリと並んだロボットが鉄の壁を支えている。ちゃんと握る箇所が用意されているのだ・・このロボットが運び、撤去したんだとサチは、涙をまた零した。ただ壁に使うのではなく。取っ手のある方を砂地に向ければ、ストッパーにもなる。綺麗に重ねれば、戦車が走ってもそう簡単にはズレない。しっかりと練られた鉄壁プランなのだ・・
「ママ、これ何台あるの?」「そうだね、測ってみようか。ちょっと待ってて・・鉄板の大きさは・・高さが30m、 横90m。一辺が約2000mとして4辺あるから・・22x4、そうだね、90台くらいは居るのかな・・すごいね、どこで作ったんだろう・・」

「ロボットが90台も!すっげー!」一幸は大はしゃぎだ。子供が見ても喜ぶ、そんなデザインだった。砂漠に似合う迷彩塗装に、誰かさんの好みだなと幸は思って、涙目で笑った。

サチは画像を首相官邸でも視聴できるように設定しながら、後方のロボットに声を掛けた。

「エレン! 官房長官に繋いで!」

「分かりました・・・どうぞ!」

「官房長官、プルシアンブルーのサチです!解析ができました。大型ロボットが何台も見つかりました。これでエジプトの戦車隊を制圧したんです!」

「ロボットだって・・」

「映像のリンク先を官邸宛に送信しました。首相と幹事長と、確認してください」

「分かった・・ ありがとう、サッちゃん、助かった・・なんて父親だ、大型ロボットだなんて・・要はさ、モビルスーツのようなものを開発していたって事だよね?」

「ええ、アニメのようなビームサーベルやレーザー銃は使ってなくて、昔ながらの鉄パイプをロボットが振り回してます。ヤンキー仕様ですね、これ」

「ヤンキー仕様ね・・まいったな、妙な所で人間的じゃないか」

「ええ、あの人らしい武器だと思います。地面をバシンバシン叩いて、戦車を威嚇しています。戦車を避けて叩いてます・・多分、壊していません」

「了解、早速首相に報告します。連休中なのに・・その・・良い休日を!」

「はい、失礼致します・・」少しだけ、出てきたお腹を擦りながら、回線を切った。 ベネズエラが想定した通り、真っ先に解いてみせたのは、やはりサチだった・・

即座に映し出された映像に、首相官邸に居る全員が泣いていた。圧倒的な存在感の前に、既存の武力が歯向かおうともせずに、怯え、逃げ惑う。目の前に大型ロボットの大群が現れたら、人は誰でも、このように恐怖に怯えるのだろう。火星人が襲来したかのように。
太朗は、父の凄さを改めて再認識した。数体では効果は出なかっただろう。数が、圧倒的な台数が必要だったのだ・・

「実写版ガンダムって褒めたいんだけど、戦い方がオーソドックス過ぎるわね。これじゃあ視聴率は稼げないかなぁ・・」 一頻り大泣きしたくせに、阪本首相が強気のコメントを口にした。柳井純子幹事長はまだ泣いている。

「ヤマトもガンダムも作っちゃったんだよ、あの人。凄いじゃない・・澄江、太朗、わたし、決めたよ。JOCの会長になるからね・・」

「はあっ?」息子の太朗が大型画面から目を離して、母親を見た。
「あんた、何を突然・・」阪本首相が近寄ってゆく。

「あの人の事だから、このロボットを宇宙に打ち上げて、火星に運ぶ手段まで既に出来上がっているはず。そんなのを発表してご覧なさいよ。日本連合の株価はまた急上昇するのは目に見えている。
IOCの大チョンボにかこつけて、五輪を改革するのは今しかない。本当はね、鮎先生が適任なんだろうけど、それが出来ないから、私がやる。来年は、この日本でオリンピックをやる! ガンダムを開会式に登場させよう! 空からビューンと飛んできて、国立競技場にドシーンって、両手を上げて着地するの。勿論、得点は10.00よ・・」
そう言ってから、また泣き出した。

阪本澄江と柳井太朗は2人で顔を見合わせて、笑った。

ーーーー

連休明けにエジプトへ・・肩書は「ベネズエラ全権特使」とあるが、全権特使って、何しても良い役職なのだろうか?里子が日本の特使として同行するというが、今回、日本は関係ないじゃないか・・
「パルマから一緒に行きましょう」里子からもメールが来た。「モビルスーツが活躍している映像をサッちゃんが解析しました。海洋ロボットよりも、断然かっこいいじゃないですか」とある。僅か1日で・・大したものだ。しかし、これでスパッと決心した。

「スミマセン。その役は辞退します。里子さんも、日本政府の誰も、行く必要はありません。国連監視団は中南米軍の将校に任せておけば大丈夫です。阪本さんには僕からも断っておきますので。また、ロボットの件は驚きましたが、日本が過度な反応をするのが心配です。まだ利用箇所が限られ、とても宇宙に送れるものではありません。改良すべき箇所が多々あるのです。まだほんの初期型、操舵しているのはロボットですが、開発コストが掛かったので、1台も無駄にはしたくないのです。公表するつもりも、今はありません。いずれにしても、パルマへ伺った時に、改めてご説明します」と、返信した。

「おじいちゃんは軍事のプロフェッショナルなの?」フラウに聞かれて我に返る。昼食後のまったりした時間に、つい返信してしまった・・

「あぁ、ごめんね。急ぎのメールだったから・・えっと、勿論プロじゃないさ。でも、中南米軍の司令官という責任ある役職は光栄だと思っている」

「責任ある役職・・もう 大統領じゃないのに?」

「うん。フラウの言う通り、本来なら大統領が全ての責任を負う立場だ。 
越山さんだって大統領職は重責なポジションだって受け止めている。でも、爺ちゃんが越山さんにお願いして大統領になってもらったんだ。櫻田首相もそうだ。
越山さん、櫻田さんもだけど、ベネズエラの閣僚は全員、選挙で選ばれていない。日本では日本人に選ばれて議員になった人達だけど、ベネズエラや中南米の人達に選ばれた訳ではない。まず、大統領の前提条件がベネズエラだけ、ちょっと他の国と違うんだ。ここまではいいかな?」

「あ、そうか。それは北朝鮮も一緒だよね・・」

「うん、そうだ。国家を預かる責任者の重みっていうのは、どの国を任されたとしても、きっと同じ筈だ。阪本首相も、北朝鮮の治郎も、越山大統領も、そして太朗も、それぞれの地域や国の代表として、同じような責任感を持って、役職に就いているのは間違いない。そういう前提条件を踏まえた上で、もう一度ベネズエラに戻って考えてみようか・・」

「さすが元教師。教えるのが上手・・」フラウが母親譲りの笑顔を見せる。

「今度は昨日の話も合わせて考えてみよう。もし昨日、中南米軍が敗れていたらって、考えてご覧。負ける確率はゼロじゃない。爺ちゃんが誤った采配をする可能性だってある。指示は的確だったとしても、通信の不具合で前線まで情報が伝わらなかったとか、現地の将校が独断で判断して作戦が失敗に終わるかもしれない。何かしらのミスが重なって、エジプトが勝っていたかもしれない・・中南米軍は、スーダンを守ろうとして戦いに加わったけど、もし負けたら、賠償金を払わなきゃいけなくなる。昭和の頃なら、領土を割譲しなければならないかもしれない。それも、ベネズエラのお金と領土から払わないといけない。日本人の政治家がベネズエラの財産から、戦に負けたお詫びに払うって、フラウはどう思う?」

「あー、そっか・・大統領が会社の社長さんなら、クビになるような話だもんね・・クビになっても、国は賠償金は払わないといけない。それに、日本人の政治家達は全員居場所を失ってしまうかもしれない・・」

「そうなんだ。責任重大なんだよ。外国人が違う国の政治をするのって、リスクがあるんだ。日本の政治家は落選したら、議員じゃないけど日本には残れる。だけど、ベネズエラで失敗したら、出ていかなきゃいけない。Jリーグの外人監督、代表チームの外人監督より大変だ。お母さんと里子さんがイタリアで議員になると、里子さんの方がリスクが大きい」

「ふむ、なるほど・・」

「越山さんも櫻田さんも優秀だけど、まだ若い。丁度お母さんと同じ世代だ。あの2人には、純子お婆ちゃんのように日本を背負える政治家になって貰いたいって、阪本首相もお婆ちゃんも願っているんだ。で、ベネズエラは2人にとっては練習の場なんだ。太朗も治郎もそうだ。北韓総督府や日本の閣僚を経験して、国を担えるようになってもらいたい。

で、首相経験者のお婆ちゃんや、大統領経験者の爺ちゃんが、何時でも相談相手になれる体制を取っている。多分、これは日本だけでなく、どの国でもやってることだと思うけどね」

「分かってきたかも。自衛隊とベネズエラ軍の責任の範囲も変わったもんね・・ベネズエラ軍の方が責任の範囲が広がった。だから、ダブルチェックやトリプルチェックが必要になるし、世界の防衛を担うベネズエラの重みが増した・・」

「そうだ。その通りだ。でも、ここで思い出してご覧。フラウは爺ちゃんがベネズエラや国連で勤めていたから、どっちにも関心があるかもしれないけど、日本人の大多数はベネズエラや国連って言われても、普段から注目する国や機関だろうか? エジプトのスーダン侵攻をトップニュースにする人達はいるだろうか? イタリア人だって、対岸の北アフリカの今回の事件に関心のある人って、多分、そんなにいないだろうね・・」

「あー、そうだよね。ベネズエラやスーダンはよく知らない国だった。アフリカや南米のどこにある国なのかも分からなかった、正直に言うとね・・」

「まぁ、普通はそんなもんだ。ベネズエラは国自体が破綻寸前だったから、そんな国の大統領は、世界から 軽ろんじられていた。爺ちゃんがベネズエラに行ったのも、「お試し」的な部分もあった。ダメ元で、やるだけやってみれば・・みたいな、そんな雰囲気だった・・
残念ながら、スーダンもその頃のベネズエラと変わらない立場にある。資源が豊富なのに、経済は困窮し、国民の大半は飢えている・・ベネズエラは何とか成長軌道に乗って、大きな軍事力を持つまでになった。責任の範囲が増えたのも、日本の自衛隊の代わりを努めているのが実情だ・・えっと、フラウは日本の憲法が軍隊を持つのが基本的に駄目で、防衛に特化した組織だから、日本軍じゃなくて自衛隊って呼んでるって知ってるよね?」

「うん、お婆ちゃんから聞いたことがある。打算と妥協の産物だって・・」

「打算か。柳井前首相らしいね・・。日本人は、日本国民だ。他国の軍を日本人が統率するって話は、本来なら好ましいものではない。もし、中南米軍が負けたなら、越山さん、櫻田さんは日本で政治家が出来なくなってしまう。他国で迷惑を掛けたヤツが、なんで日本の政治をやってるんだってね」

「あー、そうか、そう思われちゃうのか・・だからおじいちゃんが引き受けているの?消去法みたいな感じで」

「消去法・・そうだね、そうかもしれない。で、爺ちゃんは、越山さんと櫻田さんに、そこまでの責任を負わせたくないんだ。あの2人は未来の日本にとって、大事な人達だからね・・」
・・そうだ。だからこそ、表に出ては行けない。表に出れば、また新たな役割を与えられかねない。今は日本を優先するしかない・・

「じゃあさ、カナモリ大統領の時のおじいちゃんのスタンスはどうだったの?今度は日本で首相を経験した人だよ。状況は今のコシヤマ大統領とはニュアンスが変わるでしょ?」
・・この子はちゃんと理解している。頭のいい子だ・・

「政治活動する前から、ずっと一緒にやってきた優秀なパートナーだ。ベネズエラにやって来て、首相を担った時からどんどん仕事を任せた。仕事の作業量が倍増できた。大統領を任せたのも、爺ちゃんが体調を崩して政治から退いたのが理由だけど、何も手助けする必要はなかった。柳井首相や阪本首相と同じだ。それだけ優秀な人だから、絶対に失いたくなかった。日本にとっても、世界にとっても、家族にとって、凄く大事な人なんだ・・」

フラウは金森鮎という人は、杜家の中でも別格の存在だと見ていたが、祖父の表情で改めて認識した。どうしても諦める訳にはいかなかったのだと・・

ーーー

五箇山で夕飯を終えてまったりした時間を過ごしていた時に、茜が、鮎に「話せる時でいいから、遭難の時の状況をいつか聞かせてほしい」と思い切って口にすると、祖母は険しい顔をして、暫く目を閉じていた。遥が茜に「バーカ」と口パクして、茜も言ってしまった事を酷く後悔した。
「よし、話してみよう。凄く長くなるかもしれない。なんの準備もしていないから、遭難した時から話してみるね。途中で辛くなったら、止めさせてもらうかもしれない、そうなったら、ごめんね・・」

蛍もあゆみも、襟を正して鮎に向き合った。この2人も聞いていなかったのか、失敗した!と茜は思った。蒼と翠も、祖母と母親の真剣な表情を見て、大人を真似た。この子達も、家族の一員だって認識してるんだ・・

金森鮎は、孫娘にあたる茜と遥の姉妹に向けるかのように、自身の遭難の経験を伝え始めた。時折遠くを見ながら、言葉を選んで、当時の状況を細かく伝えた。遥は、録音しておけば良かったと後悔した。後に、あゆみがロボットに録画していたのを知る。
後世の世界にとっても、遺産となる第一級の映像が残ったのは幸いだった。

総勢8人の旧知の間柄でもある海洋学者の共同調査に参加した。日頃はハズレないベネズエラ気象台の予報が、この日は見事にハズレた。この天候の急変は漁師さん達も何度も経験している周辺海域特有のものだった。居た海域は荒れに荒れまくり、小さな漁船は操舵不能な状態となっていた。そこで船は大きな横波を受けて転覆してしまう。横倒しになって船は水没した状態で暫くの間、浮かんでいた。鮎は救命胴衣を付けているので暫く船の周囲を浮いていたが、泳ぎの達者ではない研究者に浮き輪を付けていたのだが、周囲を探しても同船していた学者達も漁船の船長も、誰も見当たらなかった。 船内に閉じこもったまま沈んでしまったと、ベネズエラ海上保安庁も海軍もその時は判断したが、後に、沈んだ船の中には誰もいなかったと知る。
カリブ海の海水温度は気温が高い時期だったので寒気はなかった。暫く波に身を任せながら浮遊し、体力の温存を計った。この時身につけていたのはダイバーズウォッチと腰のホルダーに入ったデッキナイフのみだった。このナイフが、あったから生き延びた・・そう真顔で言った。5時間ほどして高波は収まってきたが、すでに暗闇に包まれていた。波が穏やかになって、自分が流されている事に気がついた。真っ暗な中で、潮に流されるのは、ただ怖かった。恐怖が頭の中を支配して、眠くならなかった。寝たら終わり、という強迫観念が脳内に擡げてくるので、冷静になろうとお腹を抓って、頬を両手で叩き続けた。頬を叩く音や、お腹を抓った痛みが正気を維持した。
海流はプエルトリコ、バージン諸島の方角に流れているとダイバーウォッチと星で、方向を確認した。夜明けには諸島部がある辺りに接近しているかもしれないと良いように推測し始めた。そこで安心したのか、強烈な睡魔に襲われた。温かい暖流だったのも良かったのだろう。大型水性動物に捕食されない幸運と島へ向かう海流に乗った事に感謝した。           日が昇ったので、瞼の裏で明るさを感じて起きた。この時寝ていたのが功を奏した。ずっと起きていたら、海水で目が腫れ上がって痛くなっていたかもしれない。周囲を見回すと、幸運なことに島が一つ確認できた。これを逃したら死ぬ、そう思って、ゆっくりと島を目指して泳ぎだした。救命胴衣で泳ぎづらくなっていたのも、後で思えば、精神的に錯乱状態か、脳内がおかしくなっていたのかもしれない。浮力が効いているのだから、体には楽なはずだ。それなのに救命胴衣を脱いで、手に取った。ビート板の代わりにはとてもならなかった。何故か、思考が悪い方へ働いてしまった。筋肉痛になるのを覚悟した。やがて疲労で腕も足も重くなり、虎の子のはずの救命胴衣を捨ててしまう。そして、距離を少しでも縮めるために、体力はいつまでも続かないと考えて、今しかないとクロールに転じた。あの時、救命胴衣を着用したまま浮遊して、暫く休めば良かったのだろう。でも、初めての経験なので長時間の海での浮遊経験の知識が無く、その場その時の判断に縋った。ただ恐れていたのは低体温症だ。海水の方が体温よりも低い。長時間の放熱が体温を低下させているのは間違いなかった。だから、この島だけは絶対に逃してはならないと、老骨に鞭打って奮起した。気が付いたら足が付く浅瀬までたどり着いた。足の裏で砂を感じたとき、どっと涙が出てきた。まだ、これだけの水分が体内にある事に驚いた。歩こうとして、浮いていたほうが楽だった。歩く度に、太腿、膝周り、ふくらはぎの筋肉がビチビチに張っていて悲鳴を上げていた。腰がどんよりと重く、平泳ぎの方が、浮いている方が楽だった。
自身が海洋生物学者で、海が大好きで、泳ぐのが苦ではなかったから、なんとかなったのだろうと信じている。それでも、年齢的にも、体力的にも生死ギリギリのラインだったのは間違いない、あそこでこの島を目指さなければ、生きていなかっただろう・・

浜辺まで何とかたどり着き、海水から出たすぐの場所で倒れ込み、長い時間へばっていた。日差しが強くて肌がジリジリ焼かれて、動かないと大変なことになるって分かっていながら、肌が焼かれるような熱さも、生きているからこそ感じるとありがたく思った。
島に辿り着かなかったら、水温が高いとは言っても、長時間ともなれば、低体温症から心肺停止状態へとなったかもしれないし、強烈な喉の乾きと脱水症状で意識が朦朧としたまま、海に沈んでいったかもしれない。生を受け入れ、喜んでいるのを踏まえての暑さだった。「まだ、私は汗を掻ける」と驚いた。自分の汗を舐めて、海水よりも低い塩分濃度に旨みを感じて、浜辺で自分の汗を舐めまくっていた。     
流石に直射日光に耐えられなくなると、木陰に移動して、そこで意識を失った。それが上陸までの経緯だった。

鮎が説明を初めてから、2時間近く経っていた。「続きはまた明日にさせて、ごめんね、久々の田植えで疲れちゃったみたい・・」と言って、祖母は自室に下がった。
蒼が「おばあちゃん、おやすみなさい。そして、ありがとう」と言ってから、母と顔を見合わせて笑った後で、胸にしがみついて暫く泣いていた。幼児の涙に「この子も家族の大事な一員だ」と遥は悟った。

祖母に話を聞くのはまだ早計だったかもしれない。それでも孫の為、娘の為に、気力を振り絞って、話してくれたのだろう。たった一人で島に居続ける・・想像を絶する1年半だったに違いない。
「あの人が迎えに来るって、それだけを、ただ信じていた・・」この言葉を、遠くを見ながら躊躇いもなく発した直後に、涙が祖母の頬を伝った。その時、話を聞いている者は祖母の壮絶な覚悟と、強烈な意志や想いを理解した。祖父が来るその日まで、祖母は待ち続けたに違いない。
祖父は祖母の想いに応えるべく、地道に無人島一つ一つを虱潰しに探した。2人が再会した時、お互い、どんな顔をして、何を発したのだろう・・

2人の祖母と叔母とそして蒼と、最後に睡魔にどうしても勝てなかった翠が、祖父に対して絶対的な信頼を抱いているのが分かった。今回のエジプトの一件でこんなの当然の結末だというモードで居たのも、祖父への揺るぎない信頼があるからだろう。多くの女性が、祖父に対して同じような感情を持つのも当然なのかもしれない。愛する人を必死になって探し続ける。その過程と、見つけ出した結果を、目の前にポンとさり気なく出される。それも発見したのは黙って、明らかにしたのは祖母が回復した2ヶ月後の、それも平壌のスタジアムの放映を使って。この度量には、恐れ入る。

祖父の子を身籠った女性は、自分の選択は間違っていなかったと喜び、何者かに謝意を表すのだろう。

それに、こんな祖父だからこそ、世界の難問を解決し、こんな祖母だからこそ、日本を再建できたのだ・・

茜と遥は改めて確信し、もう何百回目なのか分からないが、祖父と祖母を誇らしく思い、孫である事に感謝した。

(つづく)

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