北海道札幌市北区新琴似の思い出

鈴木の物心がついたときの記憶をたどると、北海道での生活になる。
1985年4月、鈴木が生まれてから1992年の11月まで、鈴木は北海道にいた。

公文教育研究会に勤務していた父親の転勤によるもので、最初は函館、次に札幌に行った記憶がある。函館の記憶は無いが、札幌にて新琴似幼稚園と新琴似小学校に通っていた記憶がうっすらとある。住んでいたのは新琴似駅の近く、丸増マンションというマンションに住んでいた。目の前は大きな公園で、そこでよく遊んでいた。
マンションの間取りを思い出すと、3LDKくらいはあったのだろうか。
小学校一年生になると、学習机を買ってもらい、部屋の一角を与えられた。
部屋と行っても、ふすまを隔ててリビングに面しているので親がいつでも様子を見られる環境だった。
一番北側の個室が父親の書斎になっていて、乱雑に積み重ねてられ、勝手に入ると怒られた。
そんな丸増マンションだが、グーグル先生で調べたら、10年くらい前に取り壊されていて分譲マンションになっていて驚き。時の流れの残酷さよ。
感覚的にマンションなんて、そうそう取り壊すモノでは無いと思ってたのだが、元々が賃貸用のマンションなんで取り壊しやすいという側面があったそうだ。

北海道の生活で最も印象深いのは冬。雪に覆われた世界。
当時、20代後半の母がそりを引いて近所のスーパーや病院に連れて行ってもらった記憶がある。そして、冬になると子どもの遊ぶ場所が無くなる。仕方が無く、母は近所の体育館に連れて行って遊ばせていたらしい。
慣れない土地での生活や人間づきあい、そして子育て。
今なら理解できる。母は色々と大変だったんだなと。
そして、比喩なしで小学校からの帰り道の遭難しかけた。
きちんと雪かきがされている道路で無く、公園経由で帰ろうとしたら、自分の胸の高さまでの雪に埋まり、動けなくなった。なんとか脱出し、道路に戻って帰宅したのだった。

習い事として、鈴木は公文式をさせられていた。今はあるか知らないけど、新琴似教室というところに連れられていたのだ。今は知らないけど、1990年代前半の公文式では、自分の学年より上の学年の教材をやっている方が良いこととされていた。
それこそ、国語、英語、算数(数学)とやっていたが、鈴木は幼稚園でG教材の国語(中学1年生程度)をやっていて、これで表彰された記憶がある。親の意向というモノもあるが、子どものためと言うより、「息子が優秀児だぞ」と父親が社内で顔を売るため、いいように利用されていたように感じる。
公文が終わるまではテレビを観てはいけないとか、そのテレビも30分/1日しか観てはいけない等、厳格に決められていた。テレビゲームも同じく、1日30分まで。
幼稚園くらいの時は、周りが観ているアニメの話しについて行けなかった。

習い事としては、なぜか空手教室に行っていた。平安二段とかやってた記憶がある。
子どもに習わせるスポーツとして、水泳とか体操等のメジャーどころがある中で、なぜ空手だったのだろうか。父親が格闘技・プロレスファンだったからだろうか。ここに自分の意思がないからやったきっかけがわからない(自分からやりたいとは絶対に言ってない)

個人的には、幼稚園ぐらいの時は水泳か体操(基礎運動力をつける)→小学校高学年からは球技系(サッカーとか野球とか。中学でも続けることを前提)→中学では部活→高校は競技継続か、別のスポーツに方向転換、という流れがいいのかなと思う。
小学校で3年+中学で2年半やることで、だいたいその競技の向き不向きがわかるだろう。

話は横道にそれたが、そんな北海道の生活は父親の転勤辞令により幕を閉じる。

1992年12月。鈴木家は埼玉県与野市(現さいたま市)へ引っ越すこととなったのであった。

鈴木家崩壊まで、21年と8ヵ月。



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