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発達障害グレーゾーン【周囲に伝わりにくい生きづらさ】

ここのところ発達障害に関しての相談が増えている。それもあって、先日久々に発達障害にまつわる書物を2,3点読み返してみた。


いきなり話は飛ぶが、本は1度読んで終わりではなく、時期を分けて数回読み直してみることをお勧めしたい。そのタイミングにおける自分自身の状況や心情によって、文言一つ一つの捉え方がかなり変わるものである。

私の愛読書である姫野桂さんの著書「発達障害グレーゾーン」という書籍は、ADHD当事者でもある姫野氏が自分自身の体験や、グレーゾーンと自認する数人の当事者のインタビュー、グレーゾーン当事者の集まりに参加してみた様子等、とても分かりやすく記されており、私も何度も目を通しつつ、彼ら彼女らの独特の「生きづらさ」の世界を共有している気分に浸れる。


ところで、私は生まれつき繊細な神経の持ち主であるが、それがこの数年で「HSP」という気質として世間で知られるようになった。HSPと言う概念はもともとはアメリカの心理学者エイレン・N・アーロン氏が提唱したのが始まりだが、日本でもベストセラー著書のタイトルにもなった「繊細さん」というなじみやすいネーミングでブームとなり、様々な著名人が「自分はHSP」とアピールするようになる。これって、それ以前に発達障害が一般に知られるようになった頃の現象と似ているなとなんとなくモヤモヤした思いにかられたものである。


HSPは障害や病気ではなくあくまで「気質」であり、心療内科などで「私HSPです」など訴えるも医師に相手にしてもらえなかったとよく耳にする。ここではさらりと述べるにとどめるが、HSP自体は治すものではなく、HSPという気質により生じる副作用(例えば不眠やイライラ、極度の不安など)がひどい場合、それらを緩和するために服薬やカウンセリングを活用されることとなる。私も日々HSPで悩む人に対しては、医療機関では「HSPだ」と訴えるよりも、実際に起きている困りごとを細かく説明した方が理解されやすいと助言している。


一方で発達障害は「障害名」である。発達障害と認定されるには、各種心理テストなどを経たのちに、その結果を分析され「障害認定」となる。ここで問題視されているのが、この「分析」。自分は発達障害ではないかと医療機関に受診し、テストを受けた結果「非認定」となる。しかし納得できず再度別の医療機関でテストを受けたところ「認定」された、なんてことはよくある話である。つまりテストの結果を「分析」する物差しに本来あってはならない「医師による個人差」があるということ。これはこういった障害に限らず病気全般に言えることなので致し方ないことでもあるけど。


その結果、わかりやすく言うと「認定」された人は「発達障害者」となり、個々の特性に基づき様々な福祉サービスをうけることができるようになる(受けられるサービスの差は個々にある)。一方で「非認定」となった場合は「障害者」ではないため、障害福祉サービスの対象者とは原則ならない(一部除いて)。それだけでなく、障害者であれば周囲の人は法に沿った「配慮」が一応義務付けられることとなるが、「非認定」の場合当然そのような規定されたものはなく、あくまで「周囲の心遣い」に依ることとなる。

先述した著書「発達障害グレーゾーン」で登場する人物の中には何度か受診を繰り返しようやく認定された人もいれば、非認定となり、現実を受け入れるしかなく「健常者」として自助努力する道を選ぶ人もいる。共通していたのは「発達障害だと言われた方がほっとする(した)」という認識である。つまり、グレーゾーンの領域にいる以上、独特の「生きづらさ」とモヤモヤした関係が続き、縁が切れないのである。これは一般の人からすると目から鱗の認識ではないだろうか。「はっきり障害者と認定された」ほうが、語弊があるかもしれないがまだ「楽」になれると言う人も多いのである。

障害を持つ人の苦しみは、障害がない人では100%理解できない水域のものであり、その心身のSOSにどこまで近づけるか、どこまで共感できるかで支援の質量が変わってくる。支援者はそのために研修を受けたり資格を取ったり経験を積むなど、自己研鑽に励み、障害を持つ人のハンディキャップを少しでも取り除けるよう、援助していくこととなる。

ではグレーゾーンの界隈の人たちはどうかと言うと、まずこの時点でどこへ相談できるのか、だれが助けてくれるのか、そもそも自分のこの生きづらさが周囲に理解されることはあるのだろうか・・という点で早くも壁に当たってしまう。私に寄せられる多くの相談の中には「家族すら理解してくれない」という声があふれている。となると本人はその生きづらさの原因を全て自分自身に向けてしまうのである。「私が弱いから」「私が変だから」等である。

ふと感じたのは、これはHSP領域の人たちにも同じ現象が起きやすい。HSPのことを彼氏に話しても「気にしすぎだ」と言われて余計に落ち込んだり、家族に話しても「お前がだらしない」と叱責されてしまうなど、周囲の理解を得にくい状況と、「やっぱり自分が弱いだけ」と内省してしまうところはとても似ている。

これらの界隈の人たちの生きづらさを共感できるのはおそらく同じ境遇の人たちが適している。私も日々「HSPはHSPではない人に完全に理解してもらうことは難しい」と言い切っている。先程の障害者の特性の話と同じことだ。苦しみの深さは当事者にしかわからない。

それはともかく、私が日々思っているのは、グレーゾーンの人たちが安心して心をひらける状況を能動的に作る必要があるということ。私も自分の個人事業の中で「傾聴相談」というコンテンツを作り、HSP気質やグレーゾーン領域の方々に特有の「孤独感」や「自己否定感」を癒すべく日々相談に応じている。テストをし診断名を出し治療するということではなく、傾聴の名の通り、本人の心の声をじっくりと受け止め、共感し、孤独感を癒すこと。生きづらさを感じる人にとって、このような機会はとても大切である。


※2022.5~60分2,000円に変更


少し話がそれるが、世間には「い●ちの電話」という電話相談機関がある。生きていくことに思い悩む人が藁をもすがる思いで助けを求めるところであり、著名人の自死などの際にはあらゆる報道機関でこの連絡先が表示される。ところがこの相談機関には問題点があふれている。まず「電話がつながらない」こと、そして「話を聞いてもらうより話を聞いていた時間が長い」「甘えだと嘲笑された」など、相談対応の質やシステムがとても「苦しみの中でつかむ藁」にふさわしいものとは思えない現実がある。細かい点は割愛するが、国の「してやった感」が強く感じられる。

※これには実際に受けた人の偏った印象や一部の相談対応者のみ該当することとも言えるため、一概にこの相談機関を全否定するわけではないことは付記しておく。


グレーゾーンの人たちにまず必要なことは「相談できる」資源であり、かつそれが「わかりやすく」「利用しやすく」「継続的に救いを求められる」システムでないと意味がない。おそらく多くのグレーゾーンの人は「相談してもまた理解を得られないのでは」「自分が弱いだけなので相談するほどではないのだろう」「相談しても意味がないしもう無理だあきらめよう」という思いがまだ強い気がする。やはり「障害とは認定されなかった」こともこういった思いにつながっているとも言える。これらは福祉制度で公的に対応するよりも、インフォ―マルな資源として、身近でより柔軟なシステムで対応する方が適している。その方が「障害認定されなかった彼ら」が後ろめたくなく活用できるからである。


そもそもが発達障害もグレーゾーンもHSPも、そこまで縦割りで区別しなければならないものなのか。思えば小さい頃、学校のクラスにそういった特性を持つ子がいた気がするし、その子ら全てが上記のような特性の名札を付けていたかと言われたらそうではない。普段は別段変わりなく友達と校庭をかけづり回って遊んでいた子たちも多い。

であるならば、本来は認定されたかされないとか別にして「生きづらさ」に悩むという事実だけで受けられるサービスとして成り立っているべきである。ただ、諸々の事情でそう簡単なことでないのが現実であるならば、せめて私を含めた多くのインフォーマルの立ち位置で活動する人たちが彼らのニーズに寄り添い、それに適した対応システムを練り上げていくことが大切と思うところである。



私のもとにはまだそこまで相談が殺到するほどではないが、話を聴き、共有共感することで、相談者の「心が落ち着きました」とほっとされる様子、そしてその気持ちを感じることが、同じように生きづらさを抱えながらここまで歩んできた自分の生きがいとなっている。これが彼ら彼女らにとって、穏やかな気持ちで新たな生きがい探しにつながってくれることを心から願うばかりである。

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