見出し画像

「生きづらさとは?」対話カフェそもそも レポート#13

【開催日時】
2023年5月13日(土)
12:45~14:45
@池袋会場

第13回のテーマは「生きづらさとは?」です。

『生きづらさを抱える若者』
『生きづらさを感じる社会』
など、ニュースでよく耳にする表現です。

『生きづらさ』とは何なのでしょうか。

個人のこと?
社会のこと?

お金やモノのこと?
心のこと?

あなたは生きづらさを感じていますか?
その正体は何なのでしょうか?

生きづらさは無くしていけるのか?

今回の対話のレポートをまとめました。

あなたの思う「生きづらさ」とは?

まず初めに、
「あなたの思う『生きづらさ』とは何ですか?」
と皆さんに聞いてみました。
いま抱えている生きづらさというより、自分の中での定義です。

「誰しもが抱えているけれど、表面化されていないこと」

「生きている世界に対して、自分の立ち位置がわからないこと」

「承認欲求に近い。例えば誰かに話しかけて無視されたりすると、自分の存在を不安定に思って生きづらさが生まれる。自分を認めてもらえないというか……」

多様な視点からの意見が挙がりました。
表面化。
立ち位置。
承認欲求。
皆さんの視点はさまざまで、キーワードにもかなりの違いがあります。

はじめの問い

次に、「生きづらさ」というテーマから生まれる問いを挙げていただきました。

「自分は今、自分がやりたい仕事で、かつ良い職業に就けていると思っているのですが……これがもし希望の職場でなかったら、生きづらさを感じたのだろうか?と気になりました」

「ということは、仕事と『生きづらさ』が深く結びついている、ってことでしょうか?」

「そうですね、そう思います」

生きづらさは、仕事とも深く繋がっているようです。

この世界における自分の「立ち位置」を知るには?

生きづらさって何?に対する意見に含まれていた「立ち位置」。
こちらに対して参加者から上記の問いが上がりました。

「自分と他人との違いや、個性、自分らしさのようなものから定まるんだと思います」

「例えば自分が医者だったとして……。医者の仕事を求められたとしても、別の医者でも代わりになるのであれば、自分である理由がない。これは立ち位置があるとは言えないと思う」

「医者である以前に『私』があるはずで、その『私』の立ち位置が重要」

「確かに、自分の肩書きしか見られていないと不安に感じますよね。私じゃなくてもいいのかな、って」

「そもそも、人との差異があることは正しいのでしょうか?」

「例えば、身長の違いは差異ですよね。一般的に、 男性の身長は高いほうが良いとされる。でも、身長の低い男性を魅力に感じる人だっていますよね」

「差異についてはすごく偏見が多いと思います。○○は良い、××は良くない、みたいに簡単に決めつけがち」

他の誰でもない「私」を定めるもの。
また、人との差異。
これらもまたキーワードのようです。

学校が、差異を認めない生きづらさを作る?

「差異の話を聞いていて、今の学校教育はまさに差異を認めない、差異を無くそうとしているんじゃ?って思いました」

「確かに、人柄とか個性とかではなく、結局は点数だけで判断されますものね」

「学生のときに、個性を求められることもあるけど、それは○○の職業に役立つとか、将来の仕事と繋げられた個性の話になる」

「学生のうちは個性を消した方が良い、みたいな空気がずっと続くのに、就活が始まった途端、個性を求められるんですよね。差異を持つことが正解になる」

「なのに、服装や髪型は差異がないように、みんな似たようなスーツ、似たような髪型に……」

「それでいて、社会に出た途端、これまでと全く違う立ち位置を求められますよね」

大学から就職までは、差異と個性にまつわる激変期……!

稼げない人に生きている価値はないのか?

「自分は働いていますが、たまに「もし働いていなかったら、自分は無価値なのか?」と考えることがあって……稼げない人に生きている価値はないのでしょうか?」

「これって、『稼げない』のところはいろんな言葉に置き換えられますよね」

「モテない、とかもそうですね」

「田舎だとまた違いますよね。結婚していない、子供がいない、一戸建て持ってない、とか」

「まとめると、社会的に立派じゃない、みたいな感じですかね」

「田舎では、長男が一番偉いとかもありますよね。長男以外は低く扱われる、女の子ならなおさら低い」

「え!? いまでもそういうのあるんですか?」

「まだまだありますね……」

「長男として生まれたら、長男らしく生きて、家を継がないといけないとか、生きづらいですね……」

「努力しなかった結果で低く見られるのはまだわかるんですが、生まれた時点で決まっていることで虐げられるのは、本当に生きづらい。女性だから、とか」

人を計るモノサシは多い方がいい?

「人の価値を計るモノサシは、複数あったほうがいいのでしょうか? さきほどは点数だけで判断することを批判したんですが、じゃあどんなモノサシが、どれだけあったら良いのか、と考えてしまって」

「ひとつだけ、っていうのはとりあえず危なっかしい感じがします」

「命の価値はみんな平等に持っているけど、価値を計られるときは、命とは違うところを計られていると思うんです」

「自分にまったく合っていないモノサシをあてられて、『価値がない』と判断されるのは怖いですね……」

「ここでいう価値は、生きている価値というより、社会的な価値に近いものですね」

「モノサシが複数あればそれでいいのかと考えていくと、そうでもなくて、例えばたくさんのモノサシで計られても価値が低くなってしまう人もいる」

人の価値を計るモノサシ。
私たちは様々な場面で様々なモノサシをあてられ、価値を計られているのかも。

どんなモノサシでも生きづらい人は、生きづらさをなくせるか?

「たくさんの人にたくさんのモノサシで計られても、価値を見つけてもらえない人が、生きづらさを感じやすいのかもしれない」

「そういう人は、どうすれば生きづらさを減らせるんでしょうか?」

「似た話ですが……何かしらの特技がないと、生きづらい環境にいたことがあって。抜きん出た特技がない人は、どうすれば評価してもらえるのでしょうか」

「価値を計られたあと、褒められた経験があるかどうかは大きいかなと思います」

「自分が信じられるモノサシで計られないと、その結果も信用できないですよね」

「となると、たくさんのモノサシで計られたとしても、そのモノサシがすべて信用できないのなら、自分にとって意味のない価値判断になるかも」

「さきほどの特技とかで言えば、コンテストで賞を獲ったとか、大会で優勝したとか、わかりやすい結果があって価値が出てくる」

「すごい好き、というだけでは価値を認めてもらえない」

「個人的な体験では、新しいことを始めてみたら、『意外にこれも悪くないな』とポジティブな気持ちになれたことがあります」

「新しいモノサシを手に入れた、みたいなことですね」

モノサシへの信頼度。
そして、自分で獲得した新しいモノサシ。

マイナスに感じることを、プラスに上書きできる?

「疑問なのは、自分のコンプレックスとかのマイナス要素でも、誰かのモノサシですごく褒めてもらえたら、コンプレックスじゃなくなったりするのでしょうか?」

「自分の場合は、ある作家さんの本を読んで、ある言葉に出会ったとき、『そういう考え方もあるんだ』と思えて、自分に対する見え方が良い方に変わって楽になれました」

「その作家さんの言葉が新しいモノサシとなって、自分の価値を変えてくれたんですね」

新しいモノサシに、良き可能性を感じます。

仕事というモノサシで計られる「得意」と「好き」

「特技とか、得意なこととかは、『どんな仕事に活かせるか?』で優劣を決められるのがモヤモヤします」

「進路を選ぶとき、『あなたの好きなAは、仕事にするのは難しい。Bなら仕事にできるよ』と言われたことがあります。それで、Bに進みました」

「Aにしておけば、みたいな未練とか後悔はなかったですか?」

「なかったです」

「得意や好きを仕事目線で語られると、ズバッと言わること多いですよね。『それで食っていけるの?』とか『それで稼げるの?』とか」

「社会の言う価値観から外れて、本当は好きなことをやりたいけど、そうする勇気がない。やりたいことをやれないのが、生きづらさに繋がっていく」

「お笑い芸人とかは、やりたいことを貫いてますよね。稼げる人は一握りでしょうし」

「社会的価値と、自分のやりたいこととのギャップがあると、生きづらさが起きやすいですよね。単純に稼ぎづらい、という意味でも」

「でも、みんながやりたいことを我慢して、社会的価値を最優先するようになったら、テレビとかのエンタメがすごくつまらなくなりそう」

「さっきのAとBで、Bを選んだ話に繋がるんですが……勇気を持って芸人一本で生きていくと決めたときの生きづらさと、芸人をあきらめた場合の生きづらさだったら、芸人一本のほうがすごく生きづらいと思うんです。選択しなければいけないとき、生きづらさの少なそうな方を選ぶ人も少なくないと思います」

「芸人さんでも、本を出したり、違うビジネスをやっていたり、芸以外のことで積極的に稼いでる人もいますよね。大好きなお笑いを続けたいから、そのための保険みたいな感じで副業している人もいるのかも」

「昔の詩人とかがやっていたような『自分のやりたいことに忠実な暮らし』というのにも憧れますけど、現実的にはすごく難しい」

好きなことだけやって暮らしてみたいけれど、なかなかどうして難しいですね……。

物理的な生きづらさ、精神的な生きづらさ、その他……

「生きづらさにもやっぱり種類があって、物理的な生きづらさと、精神的な生きづらさがあると思います」

「物理的な、とかだと、わかりやすいのはモノやカネ、ですかね」

「外国に住む人たちには、その国の事情ならではの生きづらさがあります」

「お話を聞いていると、日本人にはちょっと想像しづらいようなものもありますね」

「同調圧力による生きづらさも。今だと、マスクをしたくないけど、電車の中ではほとんどがマスクしてるからマスクしないといけない、みたいな」

「コミュニティの中で、疎外される生きづらさ、孤独を感じる生きづらさを感じていました」

生きづらさの種類。
それは生まれた国によっても違うようです。

なぜ精神的に生きづらいのか?

「モノやお金で生きづらいのは見た目にもわかりやすいんですが、精神的に生きづらいのは見えないからわかりづらいですね」

「気持ちひとつでなんとかなったりはしないですものね」

生きづらさは、良いことの証?

「『もう何もかも受け入れる、社会的基準にすべて従って生きる』と決めてしまえば、ある意味生きづらさが消えると思うんです。でも、みんなそうはせずに、生きづらさを感じている。それは、自分の芯のようなもの、自分だけの心を持っているからこそ感じる生きづらさなのかな、と。だから、生きづらさは『自分に芯がある証』、その意味では良いことなのでは?と思いました」

自分が自分らしく生きようとするから、自分の軸があるから、生きづらさを感じる。

生きづらさはゼロにできない?

「社会や他人と関わって生きていく以上、生きづらさをゼロにすることはできないと思うんです。だから、生きづらさをどれだけ減らせるかとか、生きづらさとどうつきあっていくかが大切なんじゃないでしょうか」

ゼロにできないなら、どうつきあっていくか。

生きづらさとつきあっていくには?

「では実際に、生きづらさとうまくつきあっていくには、どうしたらいいんでしょうか」

「学生時代の体験から……。今いる環境に、自分の立ち位置を見つけたいという気持ち。そのために、まずはできることを見つけてやっていく」

「私は、人から嫌な評価をされて、とても嫌だった経験があります。そのときの『他人が私を見る目』で、自分を見つめてもいいことはない。他人から与えられた生きづらさを、自分は他人に与えないようにする」

「他人を一方的に定義せず、常にリスペクトして接する」

「あとこれは経験上……どうにも無理と思ったら、とにかく逃げるべき」

「ネットでは自分より上のモノや人をたくさん目にするけど、そういったものはできるだけ見ないようにする」

「人と比べすぎてもいいことないですよね」

「理想を高くしすぎないこと」

このあたりで時間いっぱいとなりました。

第13回の板書

ファシリテーターの思うこと

今回は対話の流れに勢いがあったので、感想の時間を
設けず、できる限り皆さんに対話を続けていただきました。

「生きづらさ」をテーマに選んだとき、リサーチとして「生きづらさ」の語句が含まれたニュースをいくつも読みました。

なるほど、こういうことが「ニュースになる生きづらさ」なのか……と予習した上での、今回の対話。

ニュースで語られるような視点での生きづらさはまったく語られず。
20代の参加者の皆様が、いま抱える「生きづらさ観」が浮き彫りになっていくような対話となりました。
驚きました。

抱えている生きづらさは、すぐには消えてくれないと思います。
しかし、今回の対話が、生きづらさと向き合う小さなヒントになれば幸いです。

参加してくださった皆様、ありがとうございました!

次回の開催案内

次回は2023年5月27日(土)開催。
テーマは「自己分析とは?」です。
詳細や参加申し込みはこちら。

✅この記事が気に入ったら、スキを押して、こちらからフォローしてくださると嬉しいです!

✅対話カフェそもそもに興味を持った方は公式サイトへどうぞ!

✅開催案内は、TwitterまたはInstagramでも告知しています!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?