宰相の罵倒と、西洋近代リベラル文明の終焉と。



この動画の1分50秒くらいからの、登場人物「オルフェ」の台詞・・・

なんかね・・・、ポルポト派~クメールルージュ、そこまでいかなくても、近現代の「知識人」のいうセリフによくあるよね・・・

「愚かな大衆を、愚民を、われら選良が導かねばならなぬ」

てな。

この時のオルフェの言葉は、半分本音・半部はレスによる駆け引きのためだったみたいだけど。

でも、普段「愚民とかいうような人間は、指導者としては相応しくない」ってそういう人文社会学の知見を、幼少時から叩き込まれていたと想定されるオルフェやイングリットなのだが。
それゆえに「これはオルフェが壊れかかっている」と判断したイングリットが、オルフェのMS操作を妨害し、その後「敗亡」するのだが。。

「一騎打ち」では、オルフェの言動は「勝つため」には間違いではない。
でも「大局」を見ると、戦局は

1・もう一人の味方の最強の戦士「シュラ」の戦死
2・他の「兄弟」の乗るブラックナイツは、シンの武勇で一瞬で壊滅で戦死。
3・ミエニアムとオーブを中心にする地球艦隊と、ザフト正規軍による、ファンデーション王国主力艦隊の全滅と女帝・国主のアウラの戦死。

ちなみに、戦場の中でも、1と2は、アコード能力とやらでシュラとその他の「兄弟」とは意識なりのリンクがあったので、それを補正にイングリットが推測した。て想像してみる。1・2は、通信途絶でそれがわかっただろう。

でここでキラとラクスを斬っても、覆すすべはなく、仮にキララクとの一騎打ちで勝っても、シン・アスランのほかの最強戦士と戦い・ミレミアムとかほかの「人類軍団」との戦いは、カルラ{機乗のMS以外戦力が無い}のみで、続きの戦闘での敗死か、生きたまま捉えられ「戦争犯罪者」として、もっとみじめな「死刑」が待っている。

まあイングリットは、私やこの記事を見ている大多数の人より頭がいいみたいなので、それを時間をかけず考えて、ここでまだ「正気が残っている」時点での、キラ・ラクスとの「一騎打ち」での「名誉の戦死」をオルフェのために選択した・・・て観てもいいかもしれない。

イングリットが、最後に掛けれた「愛」が、オルフェへの「介錯」だった・・。

それはともわれ、このオルフェの発した「愚民観」は、近現代西洋文明に共通し、特にリベラル思想人士がその「落とし穴」に嵌りやすい。


 以下手短かに言えば、次のようなことになる。神=学なるものが成立するためには、神々という不在の対象は〈学〉の対象として、純粋に抽象的=普遍的なるもの、「存在」という虚構の概念となるほかはない。言い換えれば神学は、それが〈学〉たりうるためには、「存在論」という形をとるほかはない。この場合「存在」は、一切の存在者を抱合する存在として、「世界」と等しいものでもある。他方で法=学の成立は、それが人間たちの様々な歴史的相互行為を〈学〉の抽象的普遍性の見地から取り扱うと主張するかぎりにおいて、歴史に拘束されない「善良なる人間性」の理念を学の前提とする。政務官キケロがフマニタス Humanitas という語を作り出して以来、帝制ローマにおいてストア哲学の通俗化とローマ法の体系化・形式化は、共に手に手を携えて進んだことを想起されたい。そしてこの場合にも「善良なる人間性」は、先の「存在論」によって規定された〈人間存在〉の属性と見なされる。こうして存在論は存在の神的完全性と善性についての教説として現れ、同時にまた「存在」を根拠として神の完全性と人間の善性が説かれることにもなる。そして純粋に抽象的=普遍的なるものとしての「存在」の概念が、実体としては、ヘーゲルが指摘するように「無に等しい」ことは、言うまでもない。


 このパルメニデスの言葉 Estin to Einai は、後世で誤解されたように自同律A=Aを表明したものではない。なぜならば等価性 equivalent と同一性 identical とは全く別の概念であり、誰も等式2×3=6を命題「ソクラテスはアテナイ人である」と同一視することはできないからである。またこのテーゼは文法をトリッキーに使ったものであり、印欧語族に特有の定冠詞の用法と動詞の不定法を用いて、「存在」を指示可能な一対象に見せかけたものであることも簡単に指摘できる。しかしそうした考察は大して重要でない。むしろ問題なのは、パルメニデスの言明の背後にある歴史的・政治的な動機付けである。それはハイデガーやデリダが存在論の解体を志向しながらなお、ロゴス的なるものをポリス的なるものに決定的に還元する勇気を欠いているだけに、なおさら重要な問題なのだ。

 パルメニデスの言葉と共に、存在論は西欧の権力に特有の暴力行使の在り方と一体になった教説として出現する。存在は到るところに在り、一切の存在者に対し容赦なく己れの支配を貫徹し、己れの存在に対して、いかなる弁明も知らない。「何ゆえに存在があって、無があるのではないのか?」 ― 存在するとは、一つの根源的な暴力に引き渡されてあることなのだ。だからパルメニデスが「在るものは在る」と断言するとき、「存在」とは語りの主体たる彼と彼の言辞(レーマ)を聴取する他者を共に同時にさし貫くような、普遍的な暴力の開示である。言い換えれば彼は見た目は対象としての「存在」について語りながら、その実は、自らの存在を根拠となしつつ、己れが独占する可知性へと他者を還元するような言説の主人に自分を仕立てあげている。これは他者と世界を〈客体〉に引き下げながら自らは絶えず無へと遁走する、〈主体〉の神話の原型にほかならない。

 このような西欧的な〈学〉の理念は、存在と現前を同一視するパルメニデスのテーゼにその発端をもつ。この〈学〉は、それが存在論としてある限り、対象の同一性 Identity を特定することをもって始まり、己れを対象の有する真理の記述として正当化する。真理とは知と対象的事物を一致させる記述の妥当性 Adequatio だということになる。しかしながら〈学〉が記述すべき対象の同一性は、〈学〉が自らに都合よくでっちあげた虚構の他者にすぎず、そこでは他者を鏡面として〈学〉のまことしやかな同一性が貫徹することだけが問題なのだ。対象の真理の記述としての〈学〉は他者の植民地化を必要としており、他者の〈教育〉によってのみ虚構として存続することができる。こうしてパルメニデスの言葉と共に、差異としての差異、他者の他者性は抹消され、後のウェーバーの宗教史学やレヴィ=ストロースの構造人類学におけるような、西欧人だけが他者の可知性を独占しているという神話の成立へ向けて、一つの歴史的可能性が開けることになったのである。

別の例で言いますと、フーコーは、一定の人間集団において、正常者(or理性、A)と異常者(or狂気、not A)を区別する法廷の裁判官が、どの審級においても正常者(or理性、A)であること見抜き、これを「権力」現象である、と喝破しました。

「理性」と「狂気」を区別するのは、常に「理性」側という訳です。従いまして、欧米人は、たいてい当面の敵を「狂っている」とか「狂人」と罵ります。

ロシアウクライナ戦争では、西側メディアは、プーチンを狂人とかヒトラー扱いします。アメリカ大統領選挙では、民主党系、リベラル系のメディアは、トランプを「狂っている」と誹謗中傷します。理性は常に自分たちが握っているのです。

19世紀中葉の西欧人たちは、アジア・アフリカの珍しい少数民族を檻に入れて「展示」するということを平気で行いました。その「人間」の定義は西欧人のでっち上げでした。

あの偉大なるカント先生(Immanuel Kant)も、大学で人類学なるものを、黒人は生まれながらに「理性」が不足しているので、白人が使役したり、奴隷として役に立たせるのは、むしろ彼等のためであり理に適っている、という具合に講義していました。

そういう偉大なる西欧の知性が「人間」や「人間性」について語るとき、非西欧人は眉に唾したうえで、拝聴したほうが良いだろう、ということですね。

自分(の方が)が狂っている(のかも知れない)
自分(の方が)が愚か(なのかも知れない)
自分(の方が)間違っている(のかも知れない)
、と考えることは、当たり前に生きている(と思っている)人間にとって、とても、不愉快、不安、nonsense なこと、嫌なことです。頭が良く、誠実で繊細な人間なら、足もとの地面がガラガラと崩れ落ちてしまうような感覚に襲われ、恐怖に戦慄してしまう。今いる場所から一歩も動けなくなってしまう事態です。

だから、普通の(精神強度の)ひとは、もたげてきたその不穏な考えを、即座に否定するか、無いことにします。
従いまして、その不穏な考えを表明する人物を、無視する(無いことにする)か、敵として打倒するか、抹殺する(否定する)、かして、自己、あるいは、自我の防衛に走ることになります。
こちら側が、狂人呼ばわりしている人物に、「狂っているのは、実は、お前なんだよ」と返されたとき、はた、っと自省できる人物は、頭だけでなく、心も強い人でしょう。
頭は良いが、心が脆弱な人は、自己=自我を防衛するために、即座に、言葉の暴力か、物理的な暴力をふるいます。頭も心も弱い人は、衆を頼んでリンチに走るでしょう。
だから、実は自分(=I/WE)が、「悪をなしている」「狂っている」「間違っている」、のかも知れない、と立ち止まれる人物は、いつでも、どこでも、少数だと考えるべきなのでしょう。
ましてや、西欧人の思考パターンは、自分が真(でなければいけないの)だから相手が偽、自分が善(でなければいけないの)だから相手が悪、自分が正しい(でなければいけない)のだから相手が間違っている。だから、敵は、悪かつ偽かつ誤、なので、殲滅して当然で、殲滅すべき、となりがちなわけですね。
イラク戦争の際、ブッシュ政権はイラクを、核爆弾を作ろうとする「悪の権化」だから殲滅するといって、米兵を使って民間人を10万人以上殺戮しました。しかし、戦後の調査で核開発の証拠は発見されませんでした。米軍のやらかした虐殺は、真かつ善かつ正(のはずなので)、ジョージ・ブッシュはジェノサイドの首謀者、ではないのです。西側で、ブッシュを人権犯罪の極悪人だから裁けと論陣を張るメディアは当時も今も、皆無です。「ハーバードの超一流講義」などのfakeに浮かれている(一部)日本人には、ハーバードで「ブッシュをジェノサイド犯罪で訴追しろ」叫ぼうものなら、即座に追放されるであろう、ことを知らない愚か者が多すぎます。
戦後日本人は、頭の中身も米軍に「占領」され、21世紀になっても、あまり代わり映えしない、のは、メディアもアカデミズムも「同じ穴の狢」です。


ちょっと長くなったが、特に

真理とは知と対象的事物を一致させる記述の妥当性 Adequatio だということになる。しかしながら〈学〉が記述すべき対象の同一性は、〈学〉が自らに都合よくでっちあげた虚構の他者にすぎず、そこでは他者を鏡面として〈学〉のまことしやかな同一性が貫徹することだけが問題なのだ。対象の真理の記述としての〈学〉は他者の植民地化を必要としており、他者の〈教育〉によってのみ虚構として存続することができる。こうしてパルメニデスの言葉と共に、差異としての差異、他者の他者性は抹消され、後のウェーバーの宗教史学やレヴィ=ストロースの構造人類学におけるような、西欧人だけが他者の可知性を独占しているという神話の成立

あの偉大なるカント先生(Immanuel Kant)も、大学で人類学なるものを、黒人は生まれながらに「理性」が不足しているので、白人が使役したり、奴隷として役に立たせるのは、むしろ彼等のためであり理に適っている、という具合に講義していました。

てのが、重心になるけど

「ディステニープラン{作品中、ファンデーション王国及びそのアコード集団が実施しようとした、遺伝子とその選良による世界管理手段~ある種の人間牧場~よくて、旧ソ連型社会主義の超管理システム版」

を当てはめるために、それに歯向かう・あるいはそろわない人は、容赦なく切り捨てる。て発想に当然になる。
あのカント先生すら、ただの黒人を「奴隷として当然だ」って言ってのける論理法・思考なのだから。

それは合理的に見えて実は「自己中心の合理性」であって「世界・宇宙の合理性」とも違うし、もっとケチな「社会の合理性」ですら無いの事もたびたびあるのだしね。

 1)日本人の頭の中にある、「西欧像」は、西欧人自身による修正済み自撮写真である

1ー2)徳川末期から、現代までの日本人は、西欧近代文明を西欧人の書物(text)から学んできた。西欧人は、他者に弱みを決して見せてはならないと教育され続けて、こどもから大人になる。従って、大抵の西欧人は、例外なく、自分の長所、強味を他者にアピールすることがすこぶるうまい。その人間の権利は、本人がその権利を行使することを通じて結果的に実現するから、自分が実現を求めて行使しなければ、誰もその権利を認めないし、認める必要もない。何故なら、本人がその権利を行使しないということは、その権利を自ら放棄することを意味するから。本を書くのは西欧の知識人であり、西欧人の作法通り、いかに西欧の文物、学芸、政治、経済が素晴らしいかを強調することになる。あるいは、西欧知識人は、自らの学知的見聞を、「~である」と記述する。「ひとは生まれながらにして自由である」「人間は平等である」、等。しかし、これは価値命題であり、事実命題ではない。本来正確を期すならば、「自由であるべきだ」「平等であるべきだ」と記述すべきだが、西欧由来の倫理学も、政治思想も、法哲学も、そうは記述されていない。西欧社会内部では、それらへの異議申し立ては、それぞれ個々の人間が主張するから、先の命題がまちがっていれば、徐々に修正されていく(はず)。しかし、実際には、財産と教養(表現する言葉)を持つ強い「個人(=自我)」のみがそれを行使でき、財産も教養(表現する言葉)も無い弱い「個人(=自我)」は泣き寝入りするしかない。西欧社会は、強い個人の「自由」と強い個人の「平等」だけが実現している社会と言える。従って、大谷翔平は黄色人種だが、とても強い「個人」なので、強い米国人は彼を自分たちの仲間と認知しているにすぎない。
日本人は、西欧人の修正済み自撮り画像、あるいは「えくぼ」だけを見せられて信じてしまい、無修正画像、あるいは「あばた」を垣間見て、驚き裏切られたように感じてしまう。これは西欧文明の卸売商である、日本人知識人の犯罪的行為の帰結。

2)「西欧合理主義」とは、自我中心の合理主義であり、その合理性は自我を中心とした無矛盾性のことであり、自我に背を向けるものは徹底的に排除するものである


 それならば、欧米的合理主義のなかに内在する不合理は何に由来するのか。その合理主義は元来矛盾を徹底的に排除して無矛盾性を維持することである。それが、矛盾を排除するが故に矛盾に陥って自滅しかねない状態になるのは何故であるか。欧米的合理主義は何か根本的な欠陥を内に抱いているにちがいない。さもなければ、矛盾を排除して却って矛盾に陥るはずがない。その根本的な欠陥とは何か。それは欧米の合理主義が自我中心的合理主義である、という点にあると考えられる。その合理性は自我を中心とした無矛盾性のことであり、自我に背を向けるものは徹底的に排除するのである。デカルトは神の存在を証明するのに「我思う」から出発し、カントは科学の妥当性を保証するのに「我思う」を証人に立てたが、このように欧米の合理主義は自我を基準として、これに矛盾するものを除き、これに矛盾しないものを保存するという思考法である。一見矛盾を許すかに見えるヘーゲルの弁証法も、「絶対精神」と名づけられる自我が自己に矛盾するものを排除しながら自己を展開していく体系であって、自我中心的合理主義の一典型である。かかる自我中心的合理主義を要約して言えば、「自我に敵対するものを合理的に倒すこと」という一文に尽きるであろう。この原理を忠実に守れば、暴力革命も是認され、民族鏖殺も正当化されるであろう。ここに欧米的合理主義の病巣がある。その病巣を剔抉するには、合理主義から「自我中心」という条件を取り去らねばならないが、本書に集録した東洋の合理思想はそうした非自我中心的合理主義のいくつかの範例を提供するであろう。


そう、だから人間を全部「盗賊の寝台」に乗っけるようなものである。


オルフェの「ディステニープラン」の先輩が、ポルポトのクメールルージュや、

ヒトラーの第三帝国・さらにいうと、「天皇」で脳が破壊されていた帝政日本による大東亜共栄圏であるのは、間違いないし、

今リアルタイムで、西洋セレブ~ネオコン&リベラルによるリベラル全体主義も、オルフェの時間的先輩&リアルタイムで続いている現象なのだ。



知識人のある意味の傲慢さは、、「機動戦士ガンダム・逆襲のシャアー」でアムロが、戦闘中にシャアーに話している。

世直しのこと…知らないんだな。革命はいつもインテリが始めるが、. 夢みたいな目標をもってやるから、いつも過激なことしかやらない! しかし革命の後では、気高い革命の心だって、官僚主義と大衆に飲み込まれていくから、. インテリはそれを嫌って、世間からも政治からも身を引いて世捨て人になる。だったら…(アムロ・レイ )世直しのこと…知らないんだな。革命はいつもインテリが始めるが、. 夢みたいな目標をもってやるから、いつも過激なことしかやらない! しかし革命の後では、気高い革命の心だって、官僚主義と大衆に飲み込まれていくから、. インテリはそれを嫌って、世間からも政治からも身を引いて世捨て人になる。だったら…(アムロ・レイ ) ★人気の関連名言はこちら★ 世界中の野球バカの想いを背負って俺は今、この夢の舞台 ...★人気の関連名言はこちら★ 世界中 kotora37.conohawing.com


世直しのこと…知らないんだな。革命はいつもインテリが始めるが、.  夢みたいな目標をもってやるから、いつも過激なことしかやらない! しかし革命の後では、気高い革命の心だって、官僚主義と大衆に飲み込まれていくから、.  インテリはそれを嫌って、世間からも政治からも身を引いて世捨て人になる。だったら…

このアムロの指摘。

ただ、中国文明からしたら「それでなにが悪いの」ってのもある。

三国演義で、諸葛孔明が「功なれば、また草庵に帰るよ」と劉備の三顧の礼で出蘆するし、

正史でも、漢の最大の功臣の一人張良は保身のため半分で「仙人修行」に打ち込んだし。

官僚主義と大衆化で、社会がそれなりに回れば、「革命を志す気高いインテリ」は、仕事が終わったようなもので、後は自適で過ごすのだ・・・孔子の思想に結構「隠遁賛美」もあるように。


そういう意味で、突き抜けた「革命」を成功させれるほどの「インテリ」は、むしろそれゆえに、自分の力や「知性」ってのの限界と言うか、
身の程を知っている。
絶望しているとはでなく「自分には到底「無限の英知」を知り尽くし使いこなすことは出来ない」ってわかっているのだ・・・だから、仕事が終われば「自適」を目指すのだろう。


行き付いた「インテリ」「知識人」は、「無限の英知」と同時に「無限の愚かさ」も知るのだ。
それは「無限に愚か」だから「無限の英知」なのであるから、、それがわかるから、大体「究極の賢者」「聖人」ってのは、謙虚なのだ。
「無限」の人間の可能性や英知からみたら、どんなに賢くても強くても、耳糞鼻くそみたいなものだからね・・・


その「人間・自分のバカさ加減」を理解できない・放逐してしまった、欧米・集団的西側知識人が、「盗賊の寝台」を愛好するのは、当然の話であり、

ツイフェミがたまに「傾聴すべきこと」も言いながらも自己中性や傲慢さでそれを実現できず怒り狂うてのが、起きるのだよね。


愚民観は、儒学でも一応ある。ただそれは「知識の多寡」だけで、それが「究極的な、賢さ・愚か」とは関係しない・・・て視点である。

鄭道伝 ウイキ


「民は至って弱きものなり。されど力を以ってこれを怯えさせることはできぬ。(民は)至って愚かなり。されど智を以ってこれを欺くことはできぬ。即ちその心を得て心服させるべし。その心を得られなければ民はすぐ去ってゆく」(下民至弱也。不可以力劫之也。至愚也。不可以智欺之也。得其心則服之。不得其心則去之)

と鄭道伝{朱子学者}の弁。

陽明学となると

「愚夫愚婦でなければ、教えを伝えられない」
と王陽明自身が言い、さらに
「俺は狂っている{狂夫}」とまで言う。

「自分の愚かさ」を知る者が、本当に「賢い」と言いえるのだろう。。

が残念ながら、西洋近代文明や、それを作った「論理」で、普通に考えて永遠に出てこない。。。


ちなみに、この記事の最初の動画のラクスとキラも、特にキラなど戦場に引きずり出される前は、超絶能力はもっていても本質的には「ナード」で結構怠惰だったしその後一度は精神が壊れかけているから、その自分の「愚かさ」を普通に自覚しているだろう。

「自分の愚かさ」を直視できない、超スペックの人間{オルフェをはじめとするアコードや選民思想に汚染されたコーディネイター}が、「自分の愚かさ」を知る、それほどではない人間たちに打ち破られた・・・てのが、種自由のもつ一つの面なのかもね。

結局は、20歳になったばかりの一国を立ち上げた奇才が、一戦場で消え去る・・てのは、その能力以上にその「思想」~ディステニープランとそのもとになった西洋近代リベラリズム~の敗亡ってことなんだろうかね。


余談。

最近は「リベラル」を結構腐しているが、考えるとこの「リベラル」って傾向は、どこの世界でもどこの時代にも散見される。

例えば中国史上最初の「近代政治家」みたいな「王安石」は確実に「リベラル思想」ももっていたし、探して「西洋近代文明の論理」で切り捨てない限りに、ぼつぼつと見つかると思う。

リベラルの「理性への信頼と寛容」は、普遍的なモノがあるとは思うが、それが完全に「イカレテ壊れた」のが、
今の現時点での「リベラル派」や古くは「旧ソ連系社会主義」「いわゆるマルクス主義者」とか「LGBTQ運動」とかですよね。

それと「リベラル・・理性や人間への信頼と寛容」ってコアの部分を分けたいので、できるだけ「西洋近代リベラル」って書いていけるようにしたいです。

余談の余談。。


最後の「一大事」を飲む・覚悟する・受け入れる・・・てのが出来てこそ、一級のインテリなりまともな人間に成れる。。

知っているだけでは、、、「大夢」に飲み込まれてしまい、、
刃物で、自分を人を斬りつけまくる。。。

「一大事」を忘れると・・素晴らしい思想・感覚も、麻薬になる。。。

これは私も自戒するばかりです・・・




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