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【2016.12.31更新】自己紹介が苦手なので書いた

「どんな人なの?」「何やってんの?」と聞かれる度にいつも悩みます。

過去について整理したことが無かったので、この機にまとめてみよう。

今回は趣味は抜きで行動履歴を。



野球

小学校3年生 – 高校2年生

小・中学校は強豪ではないけど弱くもない、そんなチームに所属。

守備位置は小学校4年生から投手。サブでほんの少し外野手もやったり。

高校の野球部はめちゃくちゃ面白くて、監督が鬼だった。

1月の雪が舞う中、上半身裸でランニング。

師曰く「寒風に身を晒して野生を呼び起こす」とかなんとか。

色々とあって高校2年生のときに野球部を退部。


 バスケットボール

中学校1年生 – 中学校3年生やってました。

ポジションはPG。

土日に野球のクラブチームに参加するため、

平日も体動かしておこうかと思って入部。

特にこれといった思い出もないため割愛。


不登校

高校2年生 − (約8か月)

ひょんな己の雑魚さから不登校(野球部退部から繋がるんですけど...)

勉強は高校受験からしてない。金も必要ないからバイトもしようと思わない。

ひたすら暇で時間が潰れることを探す日々。

成功者のインタビューとか見てると、こういう時間にプログラミングに出会っていたりするんだけど、現実そんなに上手くできていない。

一番時間が潰れることがゲームだったので、ひたすらゲーム。

とにかくいろんなゲームをした。もともとお喋りが好きだったこともあって、オンラインゲームにドハマリした。結果2タイトルを並行してプレイしてた。

ひとつはFPS、もうひとつはMMORPG。

FPSでは砂メイン、2011年の日本杯でNo.2プレイヤーに選ばれたりした。 

MMORPGではカンスト(当時のゲーム最大Lv)キャラを4体つくった。

有名ギルドのマスターやってたときもあった。

気づけば結構多くのとオンライン上ではあれど知り合っていて、秋葉で開かれるオフ会にも参加した。

FPSの方でプロゲーマーになろうかと本気で悩んだこともあったけど、No.1の人が天才的すぎて、No.1とNo.2の差が凄まじいことを見せつけられた。

あと、代々木の大会で初めて顔を合わせた、とある尊敬するスナイパー仲間のおっさんの「大学はいいぞ」の一言で不登校を卒業し、大学進学を決心。


受験

高校2年生  - 高校3年生

模試受けたら数学偏差値45、それ以外は38〜40。

どこ受けても同じと思ったので行きたい大学に行こうと思った。

好きなコラム書いてた先生がたまたま今の大学にいたから1校だけ受験。

余談だが、オンラインゲームはPCとかデスク周り環境を受験を機に全部捨てたからできなかったんだけど、その代わり高校の通学路のゲーセンに学校帰りによる生活になった。

やってたのは音ゲーでjubeatと弐寺とRb。jubeatはSS埋めまでやって、弐寺に関してはマイコン持ってた。

大学は合格した。


オーケストラ 

大学1年生初 − 大学3年生末

「楽しい4年間にしないと意味がない」としか思ってなかった入学当時。

1年生の新歓期「今までゲームと運動はやったけど音楽とか芸術系はやってないなー。芸術といったら絵と音楽だなー。絵は描けないから音楽やるかー」とものすごい軽率な気持ちで音楽活動をしている団体を見学して回った。

とある新歓にふらふらといってみたら目の前でチェロ弾いてた先輩がかっこよすぎて入部を決めた。試しに弾いてみると「いやいやどうやって弾いてんだよあの人たち...」状態。そのまま入部した。

結論、なんだかんだで3年間最後まで続けてた。最後の年なんて何を間違ったのかチェロのパトリになった(これが本当につらかった)。

週3回は合奏練、他の日は部室が閉まる9時まで自主練。

音楽経験0だったため最初は音符も読めず、経験者の後輩はクソ上手いし。

最後の年は毎日リーダー辞めたいと思ってた。

控えめに言ってうまくいかないことしかない。上手くいったことなんて皆無。

でも最後の演奏会で田園って曲のソロを弾いて、それが奇跡的にそれまでの練習の中でもベストが出せて、意味がわからなかった。

加えて本番の演奏全体が今まで以上に充実感に満ちあふれていて、

「3年間、死にたいことばっかだったけど、やってよかったな」

と思えたので今となっては良い思い出。だけど絶対に戻りたくない。


学生団体で協賛金集めの営業

大学2年生 − 大学3年生

主にやってたことは企業協賛の企画書づくりと営業で、最低でも100万集めなきゃならんくて、営業やったことないけど集めないとイベント開けないしで、とりあえず当時は毎日炎上してた。

アポとって行ってみたら担当者が不在で、1時間半待って会えたと思ったら「10分しか時間がない」と言われたり。

身だしなみについて説教を食らったり、契約とれたと思ったらなかなか金が振り込まれなかったり。金は集まらない、チームはギスギスして壊滅寸前。

「でもみんなが協力してくれてなんとか−」みたいな夢展開もなく、とにかく失敗を見直して、数当たって...

開催1週間前になってギリギリなんとか最低集めることができた。

泥沼のような経験だった。

戻りたくはないけど、当時に戻ったらできることは増えていそう。


就活

大学2年生 − 

1つ上の先輩と一緒に合説に出てみたり、インターン選考受けたり。

大手の商社、メーカー、広告代理店を見てました。

高い給料と響きのカッコよさから外資コンサルに憧れた時期もありました。

外資コンサルSIの短期インターン行って、地元の広告代理店で3ヶ月インターンもした。

結果、コンサルと広告代理店に憧れた。

でも自社にサービスがないのはなんかイメージが沸かないなと思ってしまい、

サービス業で勢いがあるITを見てみることに。

漠然と「IT企業みるぞ」と意気込んだはいいものの「IT企業って何?」

となり、ググッて候補をExcelに並べたら大手・ベンチャー全部含め142社。

そこから企業紹介ページ、社長インタビュー・動画、合説でなんとか26社。

9割くらい通って、そこから日程調整してtoC/toB分けて、業種わけて、

着地8社で実際に短期インターン。

選考に交通費出してくれる企業はほぼないから、いかにして1日詰め詰め

スケジュールで動けるか。名古屋から夜行で東京行って、

9時から20時まで7社選考受けるとかやってた日もあった。

1日に5回似た内容でやったGD経験は人生1回だけで十分だと思った。

関東・関西の友達ができた。話してて面白いと何度も感じた。

もう勘弁だけど。


アメリカ(シリコンバレー)

就活をするにあたって参加したインターンでありがたいことに賞を頂き、

景品が「シリコンバレーに行って企業見学できる」というものだった。

奇遇なことに2回も行くことができた。詳しくは当時のことを詳細に書いたものがあります。

1回目:https://note.mu/taishi_m/n/na61a24d447fd

2回目:https://note.mu/taishi_m/n/n49c28cc42fcd


NPO法人

大学2年生 − 大学3年生

大学受験のきっかけにもなった先生が主催するIoTのNPO法人の初期段階に携わらせてもらった。

メンバーの一員として、企画して、実際にものをつくったり、地元のメーカーに技術協賛してもらったり。

今思えば相当多くの人を巻き込んで、失敗も多かったし目立つ成功もなかったけど楽しかった。

学びは「成功しないとない」と痛感した経験。

失敗も確かに重要だけど、どんだけ成功のために試行錯誤してダメだったかが失敗であって、成功なしだとパターンも分からなければ、なぜ失敗してたのかの真の部分は見えないなー。とか漠然と考えるようになった。

電車の中で降りる駅を周囲の人が教えてくれる、電車の中でちょっとしたコミュニケーションが生まれる仕組みをIoTで実装した。膝が光るんすよ。


小学生向けプログラミング教室の名古屋支部立ち上げ

大学3年生−

夏に緑の会社のインターンに行った名古屋の学生が僕だけだったらしく、

新しく名古屋に支部を検討しているとの話を受ける。

就活やら部活やらと色々と重なってたけど、面白そうだったので引き受けた。

大阪の社員の方と二人三脚でミーティングの日々。

マスコミへの投げ込み、先生集め、広報、場所取り、金のこと以外が担当。

なんとか多くの方の協力に助けられ、多くの生徒が入校してくれた。

隔週で授業をして、日々子どもたちに教えたりもした。

子どもすげえなってなったりした。逆に教えられることが多くありました。


内定承諾 其の一

大学3年生−

就職活動を終え、入る会社を決めた。

名古屋にあるIT企業に内定承諾をし、そこで新記事業を考えた。

自分が起案した内容はアルバイト領域のWEBサービス。

実際に実装はできたものの世の中に出ることは無く、幕を閉じました。

最後に役員の方から頂いた

「社会に出たら数年は自分の好きなことはできなくなると思ったほうがいい」

という言葉の意味が分からず、飛び出して友人の会社を手伝うことにした。

「最近の若者は我慢ができない」という名誉ある称号を手に入れた。


株式会社ふらりーと 副代表

大学3年生 − 大学4年生

飛び出したわけですが、他に内定を頂いた会社には既に挨拶済み。

そんな時に就活で知り合った友人から「うちの会社を手伝ってくれ」とtwitterで言われ「行くわー」と返答。

翌週にそれまで関わっていた仕事を全て引き継ぎ、2週間後に名古屋から東京へ行き、初となる東京生活の始まり。

自分が入った当初はサービスも無く、人もおらず、資金も無い。

事務やら営業やら企画やら広報やら、もうできることは全部やった。

そんな初月の給与は3万円、月500時間くらい働いていた。

最初の方は特に昔バイトで稼いだ金を切り崩してた。

寝るのは会議室に布団を敷くスタイルで、

起床(8時)は出社、就寝(2時くらい)退社という後にも先にも無いであろう生活をしていました。

参加当初はスニッカーズ1日3本で過ごしていましたが、

食系の事業をやっていることもあり、代表からは「マクドナルドとスニッカーズは食うな」と言われたのが良い思い出。

シードの調達を終えて、組織が大きくなるくらいのところで社長が生き生きとしているのを見て、手伝う時に決めた「代表が報われ無さ過ぎるから、生き返らせてから辞める」を達成すると同時に「もう自分いらねーな」と感じ、どこかに就職しようと考え出した。それにしても代表が本当に出会った当初とは人が変わって、元の賢さに人間性が加わってその変化にびびった。


内定承諾 其の二

大学4年生 −

「良い大人、悪い大人」

大学生になっていろんな大人と関わってきました。大学の先生からはじまり、アルバイト先の店長、営業先の社長、人事、事業家、投資家...

多くの大人に褒められたり叱られたり、騙されたりとした3年弱。

もう一度就活しようと思ったとき1年前に出会っていた今の会社を思い出した。

今思い出しても、なんだか凄くズケズケと自分の場所に入ってきて、当時大人から耳障りの良いことしか言われない自分に真っ向から痛いことを言ってくれたなと思います。そんなことで、もう一度良い大人に会いたくて連絡した。

そして2016年の10月から早いこと3ヶ月、またしてもやったことがないネイティブゲームの新プロダクト開発に携わっている。

いやーどうなることやら今後。


さいごに

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

こんな僕ですが仲良くしていただければ幸いです。




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