雑記:spectatorを読みながら侘び寂びについて考える。
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雑記:spectatorを読みながら侘び寂びについて考える。

"こんにちは、午後もがんばりましょう"という未記入のnoteにグレーで書かれた文字を見て、午後になったことを実感する。

1ヶ月やそこら前くらいから2.5m程度の流木を家の中に漂着させてみた。
海沿いに落ちているものだから、そんなに虫は出てこないだろうと思ったけど、それなりに大きい自然物は無数の穴やら何やらがあるので一つの生態系みたいになっている。どうやら主にゾウリムシの、都会のようなゴミゴミした環境ではないけど程よいコミュニティと文化のある地域、もしくはマンションくらいの住民が和やかに暮らしているようだった。

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持ってきて以来、細かな砂が毎日流木の周りにパラパラと散らばっている。
ゾウリムシが歩いていたり死んでいたりするので、生きていたら外に投げる。良く生きろよ。
骨のように、石のように硬くて変化のないように見えるけれど、日々乾燥して収縮している。いつまで砂を落とし続けるんだろう。最近はストーブをつけたりしている。春になる頃には砂を落とさなくなるかもしれない。

砂は定期的に掃除機に吸われている。海で細かくなった岩石たちは、掃除機に吸われて焼却場で燃やされる。いや、燃えない。
おそらく最終処分場に行って、いろんな燃え残りと一緒に埋葬されるんだろう。
石は移動している。石の移動について考えを巡らしてまとめたい。

雑誌のspectatorのワビサビ特集をお風呂に長湯しながら読みふける。
その前に日本のヒッピー特集を見た。
時代は繰り返すというけれど、波が行ったり来たりするようなものなのだろうか。
僕はどうにも波はまだ引いていないように思う。来続けている。
寄せては返し、同じことを繰り返しているように見せかけて、津波のように、しかしマグマのようにゆっくりと、押し寄せ続けているのではないか。

ワビサビという概念は、特定の行為や物事、様式を想起させるものになっている。
室町時代、戦国時代という時代性がワビサビというものを生んだとも言えるし、「何も何も、小さきものは、みなうつくし」といった清少納言にもその流れが見てとれる。時代性とも言えるし、日本の特性とも言える。
権力や所有欲に結びついたこともある。
両極端の中に美しさを見出すという捉え方も面白い。
僕がやっている会社の名前も、「あらはす」と「あらはれる」の二つの言葉を合わせた造語だから、そこだけで考えればワビサビ的な美のある名前だと言える。

僕はワビサビというものを抽象的に捉えると、死という感覚を感じる。
戦国時代だし、死が身近だったんだろう。ちらっと調べると、飢饉や病気、災害が多発していたらしい。1500年ごろ起こった地震では、3〜4万人が亡くなったらしい。その頃の人口は1000万人弱程度だったらしいから、今の人口比で考えるとすれば50万人程度亡くなっているようなインパクトだ。
よくわからない数字。
空虚さに美を見る視点はとても哲学的だ。神道や仏教の動きのある時代だったようだし、生きることについて内省的な時代だったように感じる。またすがらなければ生きていけない人々、救われたい人々が多くいたんだろうとも思う。
人は内省的になると静けさの中に向かう。役割も、関係性も、肉体も離れて、虚空にたたずむ。底をついて新たに生まれて関係性と役割の中に戻るか、自分を鼓舞して虚空をいなすか、そのまま帰ってこないか。宗教に救いとられて宗教に生きるという道もあるかもしれない。
この時代は朽ちるあはれに美を見出して愛でることで、季節の移り変わりをもののあはれとともに感じ入ることで、死や遠ざかる死者、過ぎる時間、無常感と暮らしの間を行き来していたのかもしれない。

現代は死なないものが問題になっている。ゴミ、情報、お金。
この三つがモンスターになって人間が人間を殺し続けている。実際の意味でも、抽象的な意味でも。
いや、そう捉えている人間とシステムがいるだけで、そこから離れれば別にモンスターでもなんでもない。
架空のモンスターに喰われて死ぬという時代。
昔は宗教や生まれやなにがしによって敵対しあって、正義と正義の戦いの様相だったように思う。
今はどうなんだろう。自分が生きるということ自体が、モンスターによって生きてモンスターによって殺されるという入れ子状態になっている。
自己矛盾によって自ら死んでいく。

あまりに思考に介入する情報が多すぎて、情報同士が矛盾を起こしているにもかかわらず、恒常性によって矛盾が内包されたまま一つの総体を保とうする。
矛盾した情報を内在化した人々は、閉じられた情報環境の中でエコーチャンバーが強化されていく。誰もが情報のバブルの中にいる。いやそれは今に限ったことではない。現代は情報のバブルの中にいるということが表面化している、素晴らしい時代だとも言える。

ありふれていることをありがたがる。素晴らしい時代に感謝。

ワビサビと伊勢神宮の共通性を考える。
伊勢神宮は20年ごとに新しくなる。建物が新しいので、古いもの特有の鬱屈した感じがない。大木があり、水の流れがある。
なんて晴々とした場所だろう。通りが良いというのはまさにこのことで、この状態で考えたり行動すればそれは現実に形にすることは容易いだろうと思う。

伊勢神宮が死と再生を繰り返しているとすれば、ワビサビは死に際への偏愛ではないかと思えてくる。
物事は流転する。鉄は錆びて石は苔むす。家は朽ちて人は死ぬ。
エントロピーは増大し続けるので、鉄は錆び続けるし石は苔むし続ける。家は朽ち続ける。
エントロピーが増大し続けることへの偏愛。日本の自然保護は木を切ることが嫌いな人が多いので、ある意味ワビサビ的。

増大し続けるエントロピーの中で、美を見立てる。ダダイズムと千利休が近しいと感じるのはこの辺りかもしれない。
でも、ワビサビは退廃的ではないことが素晴らしいところだと思う。

つらつら書いてなんかいい時間になってきた。今日はこの辺で。
最後まで見ていただきありがとうございます。

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