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御筆一筆、仕りて候

 墨染の空を背に、朱塗りの塔が乱れ立つ――その絶景奇景を眼にした者は、黒い鬼人と赤い人鬼が入り混じり暮らす、この玄魔京そのものをそこに見て取るだろう。
 屹立する塔の中、一際高くそびえ立つのは都の誇る九重塔。その瓦屋根に男が一人。総身を黒く染め上げた、その男は名を”亞乱”と言った。
 亞乱は顔をぐいと上げ、中天で不遜に燃える赤日を睨めつける。常より紅い。奴ばらめが蠢き出す兆しと見える。
 続けて視線をやや下に。純黒の空の一点に、亞乱の目――墨師の目は、僅かな”色”を見て取った。寸毫、混じる異色。”青”。この世にあってはならぬ、まことおぞましき色だ。
「亞乱や」
 亞乱の横で胡座をかいた”ぬれば”の翁が、嗄れ声にて呼び掛ける。
「主もとうに気づいておろうが、兆しが見ゆるぞ。剣呑剣呑」
「『おそら』が来るぞえ! 『しゅ』は入れたかの!」
 その隣で”えんじ”の婆も併せてがなり、皺か口か、定かならぬ箇所を歪めて笑う。
「無論」
 太い声で応じると、亞乱は前へ歩を進める。
「俺は墨師。『しゅ』を入れねば、始まらぬ」
 屋根の端まで歩んだ亞乱は、変わらぬ歩調で空へと足を踏み入れた。一歩、二歩。何も無い場所を亞乱は歩み続ける。彼が踏みしめた虚無に「歩」の字が仄めいては、消えていく。
 歩むこと五間。目指す位置に至った亞乱は、腰帯に結わい付けた竹管より一茎の筆を取り出した。鵺の尾の毛にて編まれた穂先に、丹色の墨を含ませた、世に並ぶ物無き逸品。
「ほほ」屋根の上、翁は喜色混じりに呟く。
「今日の御筆も、まっこと良き『しゅ』の入り様。抜かり無いな亞乱」
「『おそら』が来るぞえ。これは大物、『いさな』やもしれぬ! さてさて、特級墨師の業前、御披露いただこうぞ!」」
 婆が喚いたその時、針先程の”青”がおぞましく蠢き、広がり――その色をずるりとくぐり抜け、『おそら』が此岸に躍り出た。
「来たか――然らば一筆、仕ろうぞ」

【続く】

そんな…旦那悪いっすよアタシなんかに…え、「柄にもなく遠慮するな」ですって? エヘヘ、まあ、そうなんですがネェ…んじゃ、お言葉に甘えて遠慮なくっと…ヘヘ