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じぶんを自由にする

なーんて私たちの頭は、どこまでも自由なのに不自由なのでしょう。

色々なことを思いついたり、考えを巡らせたり、何かを想ったりすることはどこまでも自由。制約されたとて、自分でも制限しようがないです。こうありたいな、という像を前提に研鑽することはできても隅々までコントロールすることはできない。

だけど、誰も一人では生きていないから、何か寄ってたつものがあるから(自分の経験、信念、職業、学問とかいろいろ)、「この方向だー」って意見が出てくるんですよね。

それ自体、とても素敵なことだし、守られるべきものであるし、誰が否定できるものでもない。

だけど、お互いに相互作用が生じるから、影響し合う。それは時に利害関係とか、進むペースの違いとか、見えている景色の違いとか、目指しているものの違いとか、理想というものの違い、表現の仕方の違い、すれ違いなど、さまざまな形で「ちがい」が現れる。

わたしたちは、この色んな「ちがい」をまた色んな角度から評価したくなる。評価すべき時がある。評価しなくていい時も評価したりもする、、。

そうすると、色んな気持ちが湧き上がってきてしまう。
悲しい気持ち、やりきれない気持ち、怒り、憎しみ、もどかしさ、、表現しきれない色々、、、

ちがい、そのものが悪いわけではないと思うのだけど。

ちがい、が自分に持って帰ってくるメッセージの取り扱い方次第で、もう少し自分の心も自由にできるかもしれない。

「ひと」を「抑圧」してくるのは、自分たちを取り巻く環境や構造(社会、文化、慣習、制度、他者etc)と、「自分自身のこころ」だと。今のわたしは、思っている。


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