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子育てと仕事について。誰にでもある、「アンコンシャス・バイアス」について考える

私は今、勤めている企業の中で、子育てをしながら働いている社員のサポートをしています。私自身も保育園児の親です。これまで障害者雇用にも長らく携わってきたのもあり、去年「アンコンシャス・バイアス認定トレーナー」という研修を受け、資格をとりました。その観点からソーシャルワーカーとしても思うところがあり、文字に起こしてみます。

全員が当事者としての意見を持ててしまうテーマ

妊娠中、育休産休、復帰後と、パパママどちらにも限らず大きな変化や戸惑いがある時期。特に第一子の場合、初めての経験でいろんな場面で、この国の子育てに対する「価値観」「無意識のモノの見方」に出会い、戸惑うことが多いように思います。というか、私自身がそうでした。そして、人は誰でも人に育てられた経験がある、そういう意味では全員が当事者の視点を持っているのが、難しいところだなと感じます。その人の数だけの育ち、多様な意見があるわけです。

例えば、よく出会う困りがちな価値観TOPはおそらく「3歳児神話」。3歳までは母親が子供をみるべきだ、というものだと思います。悪気なくそれが本当だと信じている人もたくさんで、50:50で男女ともに働いていたとしても出てくるこの意見(母親が自ら望んで専業で育てたい、というケースを否定するわけではありません)。科学的根拠として正式に否定されているのにまだまだこのチクリと刺すような価値観の正体は、その人の人生の裏にあるストーリー、そして小さなトラウマやコンプレックスだと思います。

「3歳までに親密な関係の他者と愛着関係を早期に築いた方がいい」というのは順調な愛着形成においてとても大切なことだと思います。大事なのは、親子で関係性を濃く持ちながら、幸せに子育ても暮らしも仕事もしていく上で、家族単位で「どんな形で、どんな方法でそれを創っていくのか」ということです。そして、その決定権は本人たちにあります。

尊重されるべきは「その1人の人生」

家族というチームの構成要素は(核家族で考えると)、母親、父親、子どもです。父親、母親、子どもでもいいし/子ども、母親、父親でもいいと思います。大事なのは序列ではなく、その家族の中の個人が、まずどうありたいか、何を大切にしたく、それを家族単位で考えた時にどの形が一番幸せで、うまくバランスがとれるのか、です。

・毎年どこかに海外旅行に行きたく、父母共にアクティブに仕事をして、バランスよく子どもにもかかわり、保育園幼稚園などの社会資源を使う、という家族の形。
・母親が子供が小さいうちは一緒に過ごすのが憧れだった、父親もそれに同意している家族の形。
・母親は会社員、父親は在宅のフリーランスで必然的に父親の方が家のことを少し多くするのが効率が良い、という家族の形。

こういった1つ1つの家庭の形は、社会からの価値観に左右されることなく、誰もが自由に実現できるものです。

ただそれだけのことなのだけど、この国の空気で「小さいころから知らないうちに刷り込まれた価値観」や「自分の体験(トラウマ)をとおして譲れない何か」「その主張をとおして守らなければ自分が否定された気分になってしまうコンプレックス」などが誰の心の中にもあって、その意見が正面から会ってしまったときに、人は傷ついたり、人を無意識に排除したりしてしまうのだと思います。

社内でダイバーシティを推進しよう、という風になるとき、夫婦間で家庭の役割分担や運営方針を話すとき、友人との会話、親との会話、道端で会った知らない人からかけられる一言・・いろんな場面で出会うことです。

それは社会の空気としてだけではなく、パパママ自身にも、一緒に働く誰かにも、自分の親や仲のいい友人にも、誰にでもあります。そして自分の傷つき体験や守りたいもののために、無意識に偏ったモノの見方をしてしまうこと=それが、アンコンシャス・バイアスです。

偏ったモノの見方は、自分を守ろうとする時に顔を出す

いつどこで、自分が誰かを傷つける側になるか、傷つけられる側になるかわからないし、その両方の可能性があります。自分の主張は自分にとってはいつだって正しいもので、大切なもの。

けれど、大事にしないといけないのは、その話題の当事者がどうしたいかです。社会、会社や組織、上司、親族などの意見ではなく、自分(パパママ)はどうしていきたいのか。そしてそこで自分の希望を発信する上でも、パパママ自身が自分たちの本当想い、「どうしていきたいか・いけるのか」を本音で紐解き、自分たちなりの答えを持つことで、社会で活躍できる体制をつくっていけます。決して他者が「奥さんが時短だから」とか「男が育休?」などと自分の価値観を当事者を重んじずにアウトプットしていい場面ではありません。意図せずとも、それは他者の権利や生き方を侵害することになってしまう。。これが職場で起こると、些細なことでもマタハラ・パタハラになってしまいます。

でもそんな言葉も、自分の気持ちを守るためのものでもあるんですよね。そんな言葉を言ってしまったその人も、無意識でも、「自分はそうだった」「そしてそれが普通であるはず」時には「そうだと教えられ、自分が適応してきたのに」という想いがあるんだと思います。そんな人も、気づけたら偏りを認めてあげて、そんなに気を張らなくてもだいじょうぶ、と自分をただただ認めることができたらいいなと思います。その想いを持つこと自体は、何も悪いことではありません。

私自身にもアンコンシャス・バイアスはいろいろあって、特に育休産休から復帰、という体験の中には「強い、働きたい想い」がありました。子どもができても働きたいとずっと思ってきたのでそれ自体はいいのですが、「女性活躍」だのなんだの言われ、私個人が本来大切にしたかったものは他にもたくさんあったけれど、それらが「我が家」というチームの中で、ベストバランスを作るのに苦労しました。(夫にもそれなりにアンコンシャスバイアスがあり、うまいことお互いに消化できていなかったと思います笑)それと同時に「女性活躍」とは矛盾する「3歳児神話による空気」というダブルバインドなメッセージが余計に私の思考回路を複雑にさせた部分もあると思っています。これまでの社会経験から、ある程度そんな理不尽な社会に適応できてしまい、自分の本音が見えにくかったのです。

人はその自分のバイアスに囚われることも、他者のバイアスによって傷つくこともあります。ひとってさみしい生き物ですよね。だからこそ、「自分がいつ誰かを傷つける側になるか、傷つけられる側になるかわからない」と自覚しながら学んでいくことが大事だなと思います。

今アンコンシャスバイアスによってまさに視野が狭くなっている人がもしいたら。本当はどうありたいのか、自由に考えたり、書いたりしてみてくださいね。あなたの人生の主導権は、あなたのものです。

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