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短歌「ペンギンを見に行ったのに死んでいて一日遅いせいで損した」とは何なのか


短歌投稿サイト 「うたの日」 2022年2月19日 お題「損」の部屋で「ペンギンを見に行ったのに死んでいて一日遅いせいで損した」という、蟹々何処蟹さん投稿のすごい短歌を見た。

何をすごいと思ったのか気持ちが新鮮なうちに残す。

蟹々何処蟹さんは長い期間、ほぼ毎日「うたの日」に参加している方で(この歌が初投稿の人とかだと話が変わってくるので)、つまりはちゃんとした人だと思う。どうやらTwitterアカウントなどはお持ちではないらしい。

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・「死んで損した」

「ペンギンを見に行ったのに死んでいて一日遅いせいで損した」

意味は「ペンギンを見るために動物園か水族館かの飼育施設に行ったのに、目当てのペンギンは前日に死んでいたので見ることができず(わざわざ動物園に行った時間か、お金か、労力を無駄に感じて)損した」と解釈するのが普通だろうか。


直感的に面白いと思ったのは「損した」の使い方

「損した」という表現からは、ペンギンに対する感情が何も感じられない。

例えば自分が小学校の先生で、児童から「ペンギンは前日に死んでいたので見られなかった。損した気分だ。」と書かれた作文が提出されたらどうか。
「悲しかった」とか「残念だった」とか無難な表現を使うよう勧めると思う。「損したというのは自己中心的で、非難めいた言い方に感じるよ」とか言うだろうか。

美術館に行ったら見たい絵が展示されていなかった、損した、というならばなんとなくわかる。
やはり生き物が死んだことに対して損したと言い切る心なさ、乱暴さが面白いのかもしれない。

ペンギンを目的に出かけるくらいペンギンが好きなはずなのに、ペンギンが死んでいたことを知り、「悲しい」より「損した」と思う人がどんな人なのか全く想像できない。
全く想像できない人物像を描いた短歌は面白い。短歌は共感させることも大事らしいが、全然共感できない短歌も好きだ。

せっかく〇〇なのに××だったせいで損した、という、短歌全体に漂う幼さも魅力的だ。一日遅いせいで、の説明の足らなさも心を掴む。
そもそも意味のわからない話が短歌になっているというだけで大好きなので、最終的にハートをつけて投票した。

ここまでは投票し終えるまでに考えていたことで、サイコっぽい、好きだ、と紹介したのもこの辺りまでしか考えていない時だった。が、しばらく考えていると他にも不可解なことがあると気付く。


・ペンギンは何羽死んだか

普通、ペンギンが1羽死んだくらいでは来園者が損だと感じることは無い。飼育施設には複数のペンギンがいて、死んでいないその他のペンギンはいくらでも見ることができる(ペンギンの飼育個体が1羽の施設はざっと調べても見つけられなかったし、あったとしてもそんなケースを短歌にしないだろう)。

これがトラとかゾウとか、その飼育施設に1頭しか飼育されていなくてもそこまで変に感じない動物だったらまあ、そういうこともあるかもしれないが、よりによってペンギンを選んで詠んでいる。

もしかしたら自分はこの歌をちゃんと解釈できておらず、しっかり読めばすっきり共感できる短歌になるのではないだろうかと思った。そこで、どういうケースだと「ペンギン」が「死んでいて」「損」するのか、ちょっと考えることにした。

仮説1 特定の有名なペンギン1羽が死んだ

まず、パンダのシャンシャンくらい固有の有名なペンギンのXくんがいて、それを目的に来たのにその1羽が死んでしまっていたという可能性を考える。が、やはり「損した」という表現と全く合わない。なおのこと想像しにくい人物像になって面白いが、それくらいペンギンのXくんに興味のある人が「損した」というのはかなり無理があるように思う。

またその場合、「ペンギンを見に行った」とは言わないような気がする。上野動物園に行ってシャンシャンを見た人が、「パンダを見に行ってきました」と言うのはかなり不自然だ。短歌で表現できることに限界があるとはいえ、この書き方で著名なペンギンXのことだと主張するのは難しいと思う。むしろ短歌なので別にペンギンに拘らず、適当に有名な、それこそシャンシャンとか(死んでないが)に登場してもらった方が「機会損失の残念さ」は伝わりやすいし、そう詠むことは簡単だったはずだ。でもそうしていないというのは、多分、ペンギンのXくん説が違うからなのだろう。

仮説2 その施設のペンギンが全滅していた

ペンギンが見たかったのに死んでいて、見られなかった、という条件を満たすには、全滅させるのが一番簡単なように思う。これも損したどころの騒ぎではないが、意味は通る。

だが、きちんと読み解けば共感できる短歌なのではないかという前提から大きく遠ざかる。そもそも「一日遅いせいで」とかに文字を費やしている場合でもない。意味がわかると怖い短歌、みたいな想定ならあり得るのだろうか。

ここで、これまであまり注目してこなかった「一日遅いせいで」という情報に注目する。

「一日遅いせいで損した」のだから、ペンギンが全滅したのは前日か、遅くとも当日の朝。で、この人は現地に足を運んで初めてその事実に気づいたことになる。つまり場内のアナウンスで聞いたか、それともペンギン広場の周辺の張り紙や看板で「申し訳ありません、昨日〇〇があってペンギンはもういません」などと書かれているのを見たということになる。

そこまで想像して、ようやく「そんなことが起きたら普通は施設ごと閉園する」ということに思い当たる。全滅するのだから、事故か病気か、いずれにせよ施設にとって相当な不祥事といえる。看板を作ってアナウンスした上で平気で営業するとは思えない。

その場合、「死んでいて見られなかった」のような表現をするだろうか。しない気がする。

また、「一日遅いせいで」というのは「昨日行っておけばよかった」と考えているということだ。もっといえば、全滅する前のペンギンの、最期の姿を見ればよかったと悔いているということでもある。

「損した」と悔いているが、そんなペンギンを前日に見に行っていたら、翌日に全滅したというニュースを見て「昨日見ておいてよかった、得した」と考えるだろうか。一歩間違えれば、事故の瞬間か、まさに病気で死んでいる瞬間を見てしまうかもしれない…。


・ペンギンはいつ死んだか

ここまで考えて「死んでいて」という言葉の不確かさに気付いた。先程「ペンギンが全滅したのは前日か、遅くとも当日の朝」と言ったのは、この「死んでいて」を「(もう既に)死んでいて」と解釈して読んでいたからである。

この人は、本当に死んでいる瞬間を見てしまったのかもしれない。つまり、「(ペンギンを見ると、まさに今)死んでいて」という意味なのかもしれない。

こうすると、前述していたいくつかの疑問が軽くなる気がする。

まず、何羽死んでいてもいい。特定の1羽でも、100羽でも成り立つ。特定のペンギンXでも無名のペンギンでも良い。目の前で今起きたことなので、施設が営業しているのは当然だ。

何より、確かに損だ。見たくもないペンギンの死を見せつけられたのだから、かなり不快だ。それまで好きだったペンギンが、苦手になってしまうかもしれない。

「一日遅いせいで」も理解できる。この日にさえ来なければこんな不快な思いはしなくて済んだからだ。この理屈で言えば「一日早いせいで」でも良いが、例えばこの人は土日が休みで、本来は土曜日に施設に行こうとしていたが寒くて布団から出られなかったとか寝てしまったとかの理由で叶わず、不本意ながら日曜日に出かけているのかもしれない。

考えてみると、この短歌では「結局ペンギンを見ることは出来なかった」とは一言も言っておらず、ただ「損した」と言っているだけだ。ペンギンを見た上で損した可能性に、どうして気づけなかったのだろう。


・「ペンギンを見に行ったのに死んでいて一日遅いせいで損した」

以上を踏まえて、もう一度短歌を見てみる。

冒頭の解釈を訂正すると「ペンギンを見るために動物園か水族館かの飼育施設に行ったのに、施設の不始末で目当てのペンギンがまさに死にゆく様を見てしまって不快な思いをし、損した」となる。

なんなら「損した」とスパッと言って、すごい速さで切り替えている気持ちのいい若者にすら見えて来る。当初感じていた「損した」の違和感は、もはや無い。


・別に面白くはならない

が、こうして詰めていってこの短歌の鑑賞が面白くなったかと言われるとそうでもない。むしろ最初に感じた「わけのわからない短歌」のままの方が面白かった気がする。

なんだか無粋なことをした気がする。当たり前だが、この解釈は単なるこじつけで正しくない。自分にとっては、この短歌の面白さを探り、創作に活かそうという一連の作業だったが、他人の短歌を茶化しているように見えるかもしれない。
だとしたらすみませんでした。さようなら




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