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「共感はできないけれど、理解はできる」理由:途中だけど書評『反共感論』

こんばんは、駆け出し眼鏡です。昨日出した記事こんなことを書きました。

これは何も学校だけでなく、社会課題というものに基本的に興味が持てないのです。語弊を恐れずにいえば、日大のアメフト問題にも、一切関心がありませんし、政治は愚か国際事情にも現実味がわきません。

書いている通りですが、ぼくはアメフト問題に興味を持てませんでした。教育問題として重要なことは分かる一方で、そのセンセーショナルな取り上げられ方や、多くの人がコラムを書いている状態に対して、憤りすら感じていました。加害者生徒への『共感』を始めとする「善意らしきもの」に違和感を強く感じたのです。

今日はこの違和感をきっかけで読むことにした「反共感論」という本で見つけた、共感の種類について書いていこうと思います。

少し話は変わりますが、ぼくには人よりも、共感力がありません。ただストレングスには調和が出ており、人の気持ちに敏感だとも思っています。

多くの場合この二つは矛盾するかもしれません。しかし「反共感論」によれば「共感」には「情動的共感」と「認知的共感」の二種類が存在します。

(情動的)共感とは、他社が経験していると自分が考えるあり方で、自らが世界を経験するようになることである
(共感には)他者の心のなかにで起こっている事象を、感情を挟まずに評価する能力に結びつけてとらえる(認知的)共感の意味もある。

この定義によれば、ぼくが得意なのは「認知的共感」で、「情動的共感」についてはとても苦手な領域だ、という理解が可能です。つまりぼくは周囲の感情をトレースはできないけれど、予想はできるからそれに対して敏感になれるということです。

これについては良かった点が多いように感じています。

例えば、ぼくは集団の中で意見を中立的に聞き、落とし所を見つけるのが得意です。おそらくそれは感情的には共感しないけれど、論理的に理解はできるから、それぞれの意見の間を見つけることができるのだろうと思います。

またぼくは映画や本で感動して涙を流すように心を揺さぶられることはほとんどありません。これはこれで少し寂しい気もしますが、結果的に「この作品は何を伝えたいのか」といったテーマやメッセージに重点を置いて、コンテンツを楽しむことができるのはとても良かったなと感じています。

実はまだこの本、序章しか読めていないのですが、アメフト問題でぼくが非常に強く感じていた『共感』からくる善意的なものへの違和感を、説明してくれるような本なのではないかと期待しています。

では今日は少し短いですが、このあたりまで。本日も最後までお付き合いいただきありがとうございました。


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