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数量というカルト宗教

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


炭素会計には私の内なる数学オタクにとって魅力的に見える部分もあります。気候変動の問題には、慣れた認知の道具を使って合理的な方法で取り組みたいものです。私だったら、地球をいろいろな生物群系に分け、過去の研究から各々の1ヘクタール当たりの平均炭素隔離量を推定するでしょう。ヘクタール数の合計を掛け算し、各生物群系の寄与度を足し合わせて、地球全体の炭素収支を割り出すでしょう。生物圏の吸収能力を超えることなく様々な温室効果ガスをどれだけ放出し続けることができるかを計算し、どれだけ早く化石燃料を削減する必要があるのかを計算し、何本の木を植え、海藻の森をいくつ植える必要があるか、といったことを計算するでしょう。どの政策の選択肢にも数字が付いています。こっちで吸収能力を足し算し、あっちで引き算し、ある場所の露天掘り鉱山をどこか別の場所に新たに植えた森林で埋め合わせて、気候に優しい合理的な政策を決定できるでしょう。

生意気な男がボードゲームで遊ぶように地球上の数字をいじくり回しているイメージには、少なくともちょっと不吉な感じがすると思います。ここまで森林について説明したように、自然は個別独立の断片がたくさん集まってできたものではありません。自然を理解しようとして断片に切り分けると、それらの断片の間にある関係性を見失ってしまいます。でも生態系の癒しは、関係性を癒すことに他なりません。

炭素隔離能力の数値に含まれている計算は、自然や社会のはたらきを背景から切り離して抽象化できることを示しています。自然のはたらきを炭素の観点から線引きして落とし込み名前を付けるとき、こぼれ落ちるのはその中にある関係性です。私たちには様々なはたらきを気候変動や気候の健全性に寄与する「要因」と呼ぶ習慣がありますが、要因という概念そのものがすでに問題なのです。要因どうしを掛け算して積を求めるなら、一方の要因を変化させれば積も変化するのは予測できることです。因数分解というのはある数値をもっと小さく単純な数値の束へと落とし込む方法なのですが、複雑系を断片的に対処できる独立した要因へと因数分解するのは簡単ではありません。私たちの問題解決への取り組み方そのものが問題解決への障害物となります。

私たちが測定し、数値化し、データに落とし込む能力を遙かに上回る複雑さの生命が宿るのは、森林だけではありません。ラッコの気候への寄与を、いったいどうやって数値化すれば良いのでしょう? ラッコは炭素を隔離しませんが、ウニの数を抑制します。ウニが野放しになると破壊されるのがコンブの森です。コンブの森は炭素を吸収するだけでなく海水をアルカリ化するので、貝類や甲殻類がさらに多くの炭素を吸収できるようになります。

沿岸魚の気候への寄与を、いったいどうやって数値化すれば良いのでしょう? 沿岸商業漁業による壊滅的な乱獲の結果、巻き貝とカニの数が爆発的に増加し、炭素を隔離する塩性湿地を荒廃させました。海草や海藻の衰退は、何百年にもわたる魚の乱獲に端を発しており、現在の沿岸生態系に対するストレス要因よりもっと前から続いてきたと示唆する生物学者もいます[23]。栄養関係が崩壊すると、生態系は富栄養化などの外乱に弱くなります。その一つの結果が、海藻や長寿命の海草に代わって、酸欠を起こす水の華やアオコのような藻類へと優占種が変化することで、これは炭素隔離量の減少につながります。魚類も糞の中に大量の炭酸カルシウムを排泄することで酸性を緩和するのに一役買っています。『生きている地球レポート』2015年版によると、海洋魚類の総数は1970年代以降で半数が減少しました[24]。別の研究では20世紀の間に起きた魚類バイオマス総量の減少幅を3分の2としています[25]。酸性度の上昇はサンゴや貝類・甲殻類を弱体化させ、撹乱の波は海洋生態系の全体に広がります。一個体の健康は全体の健康に影響を与えるのです。

ではクジラはどうでしょう? 環境保護運動が全盛期だった頃に子供時代を過ごした私は、そのとき環境保護主義が政治的立場を超え、「クジラを救え」という言葉がまだ人を馬鹿にしたような決まり文句ではなかったのを覚えています。現在、クジラを救うことは気候変動反対運動が隅へと追いやった数々の環境問題の一つにすぎず、大きな気候災害を食い止めるという文脈の中では感傷的な付け足しのように見えます。

このテーマについて調べ始めたとき、クジラが地球の健康にとって欠かせないはずだということが私には分かっていましたが、それは何の証拠も示せない私の直感でした。クジラを救うことが温室効果ガスなどの地球全体の数値にどう影響するというのでしょうか?

私の直感には確かな根拠があることが分かりました。まず、空気から炭素を除去する重要な手段は海洋生態系を通じてのもので、その中で最も有効なものは、冷たく養分豊富な深層海水が水面に湧き上がる場所です。栄養素はコンブとプランクトンの生育を促し、食物連鎖の全体を支え、炭素を深海へと帰します。現在、深層海水の湧き上がる場所は減り続けていて、その結果として生命のほとんどいない「海洋砂漠」が拡大しています。これは普通、海水表面温度の上昇が原因だとされますが、別の仮説では(あるいは少なくとも一つの要因は)クジラの大量殺戮が関係しているかもしれず、クジラの数は捕鯨が始まる前に比べるとごく僅かしか残っていません[26]。クジラは水温躍層(サーモクライン)の下から栄養素を運び上げ、それを水面近くに糞として放出します。これが、オキアミを食べるクジラが大量に殺された南極の海でオキアミの数が減少した理由かもしれません。主な天敵がいなくなったらオキアミは増殖すると思うでしょうが、事実はその反対です。

クジラは水平方向にも栄養素を輸送します。多くのクジラ、特にシロナガスクジラは、極地帯でよく太ってから熱帯海域へと泳いで行き、子供を産み育てます。地球の機械論的パラダイムに条件付けられた人なら、生物学的な養分輸送は広大な海の中では取るに足らないと思うでしょうが、綿密な研究からはそうではないことが示されます。「巨大生物の世界における全地球的な養分輸送」[27]という論文を私は特にお勧めしますが、そこには海中と陸上の両方で窒素やリンなどの栄養素を分配するのに大型動物が果たしている役割が立証されています。(これは炭素の枠組みでは重要なことですが、リンと窒素が炭素の生物的吸収を制約する主要因だからです。)この論文には、更新世以降で150種の大型哺乳動物が絶滅し、その結果として大陸と海洋を越えた養分輸送が急激に衰退したたことが述べられています。クジラの生息数は、種類によっては(シロナガスクジラのように)99%も減少し、栄養素の水平拡散能力は、南氷洋で98%、北太平洋で90%、北大西洋で86%低下しました。クジラがいなくなった海で海洋砂漠が拡大しているのも不思議ではありません。陸上のシナリオも同じように恐ろしいもので、これも大型動物の減少によるものです。アフリカを除いた全ての大陸で栄養素の水平拡散は少なくとも95%低下しました。

さらに、クジラなどの海洋生物は単に泳ぎ回るだけでも大量の運動エネルギーを海にもたらし、ある推計によると風や潮流が海水の層をかき混ぜるのに等しい効果があります[28]。これが栄養素を海面まで運ぶだけでなく、上層海水を冷やすことにも役立っている可能性があります。クジラの急激な減少と、最近の産業漁業による魚の乱獲によって、海洋の総熱量が一定であっても容易に表層海水の温暖化につながるでしょう。

クジラが温室効果ガス濃度に影響を与える可能性のある別の経路は、生態系の栄養カスケードによるもので、これは生態系全体に響き渡る連鎖反応です。ある仮説によると、第二次世界大戦後の捕鯨ブームの結果として起きたクジラ生息数の激減によって、多くの種が絶滅の瀬戸際に追いやられましたが、これで主な食料源を奪われたのがシャチでした[29]。そこでシャチはもっと小さな獲物へと向かい、アザラシ、アシカ、ラッコなどを食べるようになりました。その結果ラッコの数が激減したので、ラッコの餌であるウニが爆発的に増加しコンブの森を破壊しました。コンブの森は炭素を隔離し海の酸性度を緩和するのに重要な役割を果たします。過度な酸性化によって貝類や甲殻類、サンゴが育たなくなり、炭素吸収源がまた一つ消えました。

これらの例から、生物圏を量的なモデルで完全に網羅することが不可能なこと、またそのようなモデルから出てきた政策によって生物圏を癒すのが不可能なことを理解していただけると思います。また、気候は動植物が生きている生物圏から切り離されたものではなく、むしろ気候は生物圏の一つの側面で、科学がこれまで考えてきたよりずっと密接に生命と結びついていることも明らかにしていると思います。したがって、私たちが生命に適した気候の中に生きようとするなら、あらゆる形の生命が繁栄できるよう尽くさなければならないのです。

炭素会計が一因となっている想定があって、それは生命圏の各構成要素の炭素寄与度を分析し、おそらくは寄与度の小さいものを犠牲にし、大きいものを育成することで、私たちは健全な生物圏を維持できるというものです。この物の見方は生きている地球というアプローチからは何の意味も持ちません。クジラや森林、湿地帯の保護が、また水に溶けた内分泌撹乱化学物質や空中に放射されるマイクロ波のようなずっと微妙な変数が、大気中の二酸化炭素にどう影響するかを、炭素会計士は測ることができません。その結果、これらは気候政策の議論でほとんど注目を集めることがありません。

測定とモデル化から取り残されるものを評価するために、私たちは別の選択基準を持つ必要があります。それは生きている地球のパラダイムで、その元となる「相互共存(インタービーイング)の物語」では、全体の健康は個々の健康にかかっているといいます。

この章で引用した研究が示すように、定量的な科学は生きている地球のパラダイムに役立てることもでき、あらゆる生き物の間にある繋がりを解明します。しかし、ある選択と別の選択を温室効果の数値化によって比較することで政策の舵取りをするのはもう望めません。このような計算に危険が伴うのは、それが私たちの知識の正確さと範囲に依存しているからです。以前なら気候とはほとんど関係が無いと考えられていた生物種や生態系が、極めて重要だと判明したりします。炭素隔離における菌根の役割が正しく評価され始めたのは1990年代になってからでした。魚類が炭酸カルシウムを排泄することを研究者が確かめたのは2009年になってからでした[30]。北方林が低高度での雲の形成を促進することが知られるようになったのは2000年代になってからでした[31]。大型動物の養分輸送の論文が公表されたのは2016年のことでした。もし私たちが10年前の科学を使ってこれらの物事を評価したなら、炭素クレジットの値はゼロだったでしょう。

最近まで、気候モデルでは北方林と中緯度森林の両方とも冷涼化より温暖化への寄与が大きいとされていました[32]。このようなモデルから導かれた「科学に基づく」政策がどのような影響をもたらすか、想像してみて下さい。あなたが林業や鉱山会社の重役で、利益のためにする森林破壊を正当化しようとしているのを想像してみて下さい。たぶんあなたには良心があるでしょう。あなたは伐採しても大丈夫だと言いたいのです。それには理由もあります。

確かに、木材産業は林産物が気候変動と戦うのに役立つというのを好みますが、その理由は、切り倒された樹木が建築材料となって数百年間は炭素を大気に戻すことがなく、伐ったあとに植えられた樹木はその間も大気から二酸化炭素を除去し続けるからです。もしあなたが計測するのがそれだけ、つまり木部に固定された炭素だけなら、この主張は理にかなっています。でも、土壌中の炭素や土壌浸食、水循環に与える影響、生物多様性への影響など、測定が難しいものを見逃してしまいます。

私たちのモデルと測定基準が不完全なのは今後も避けられないでしょうし、様々な自然と人間の活動が気候に与える影響を、あるときは過小評価し、あるときは過大評価するでしょう。計量を基にした政策決定の環境では、開発業者や汚染者が自分の経済的利益に一致すると見れば、いつもこのような食い違いに付け込んでくるでしょう。数字を使えば、彼らの主張は科学の輝きを放って見えるでしょう。

気候の観点からは、マングローブは温帯林より重要だったり、サンゴ礁は山腹より重要だったり、オオカミはルリツグミより重要だったりするように見えるかもしれませんが、私たちの知識には限界があることを覚えておかなければなりません。炭素の計算はいつも何かを見逃しているのです。

他に見逃しているものは何でしょうか? 科学のレンズはこの章で示したよりはるかに多くのことを排除してきたのではないかと思います。栄養素の循環に対するクジラの寄与はそもそも測定困難です。クジラの歌が全海洋に広がる神経ネットワークを維持するために果たしている役割はどうでしょう? ゾウの移動パターンが地球上のレイライン[古代遺跡が並ぶ直線]に沿った微妙なエネルギー経路を維持するために果たしている役割はどうでしょう? もし私がこの場で、クジラの心や、イルカとの精神的コミュニケーション、動物コミュニケーターによる動物との交信、植物の心を夢に見る人、ダウジングをする人、シャーマンなど、地球の癒しに関係するメッセージを伝えると主張する人々のことを持ち出したら、気候についての真面目な議論には不適格だと見なされることは確かでしょう。数値人間にとって、これらは当面の現実的な問題から注意をそらす戯言(たわごと)のように見えます。でも数値人間の知識と方法は私たちを裏切り続け、別の世界観がドアを叩く音がします。突き詰めれば、地球を癒すには現在私たちが受け入れているものをはるかに超えた知識の源と知識を得る方法を取り込むことが必要となると、私は確信しています。

ありふれた生態学だけを考えても、排除され、過小評価され、置き去りにされてきたものを呼び戻さなければ、たとえ化石燃料の使用を大幅に削減できたとしても、気候変動は悪化を続けるということが、先の2章で明らかになりました。それは温暖化かもしれませんし、寒冷化かもしれません。ますます激しくなる乱高下、つまり生命を維持する正常なリズムの撹乱かもしれません。そのとき私たちはこれまで低い優先順位しか与えてこなかったものたちの重要性に気付くでしょう。それは、マングローブ沼沢、深層地下水、神聖な場所、生物多様性ホットスポット、原生林、ゾウ、クジラ。そして、私たちの数値には表れない不思議な方法で、生きている地球のバランスを維持している全ての生き物たち。そのことに気付いたとき、自然のどこかの部分に何かをすれば、私たち自身にも必然的に同じことをするということに、おそらく私たちは気付くでしょう。


注:
[23] シェルンフーバー(2004)p. 259。

[24] 世界自然保護基金(2015)p. 7。

[25] クリステンセンら(2014)。

[26] たとえば、ローマンとパルンビ(2003)を参照。

[27] ドーティーら(2016)。

[28] デュワーら(2006)。

[29] ホイットフィールド(2003)。

[30] クォック(2009)。

[31] シュプラックレンら(2008)。

[32] ボナン(2008)。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/the-cult-of-quantity/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸



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