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コミットメントが息づく場所

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


「グリーン[環境に良い]」=「低炭素」という方程式は、複雑な原因の網の目を数値化可能な単一の原因へと単純化するので、私たちの知っている暮らし、今までの暮らしを続けられることが持続可能性だと思わせてしまいます。それはグリーン成長と持続可能な開発という現行のパラダイムを正当化して盛り立てますが、このパラダイムこそが、より多くの資源を飽くことなく求める現在の経済システムを維持するのに欠かせないものです。もっとはっきり言えば、温室効果ガスを発生しないように利用する限り、地球をそのような「資源」、つまり私たちが使うために差し出された物の集まりと見つづけることを許してくれます。そして肝心なのは、地球という惑星を機械のように管理し、投入物を制御し産出物を計測しながら、その運転席に座るという人類の態度の一因となっています。それは非直線的問題に直線的な対応を誘います。でも地球は機械ではなく、生きていて、私たちがそれを生き物として扱う場合だけ、生命にとって住みやすい場所になります。

以後の各章で私が証拠を挙げて示すのは、森林破壊、工業型農業、湿地破壊、生物多様性の喪失、魚の乱獲など、大地と海の虐待が気候に与える影響は、多くの科学者が考えていたよりもずっと大きく、手付かずの生態系が気候を調節する能力は、同様に今まで理解されていたよりもずっと大きいことです。これが意味するのは、私たちが炭素排出量をゼロにまで削減しようとも、至るところで進んでいる生態系破壊を私たちが地域レベルで反転させなければ、気候は無数の傷を負って死んでいくということです。

先ほど書いたグーグル検索の結果に暗示されている前提とは反対に、地球規模の健康は局地的なものの健康に依存しています。最も重要な国際政策は、私たちが何百万もの局地的な生態系を修復し保護できるような条件を作るものでしょう。現在はその反対のことが多く、たとえば国際自由貿易協定は地域環境保護から被った逸失利益で企業が政府を訴えることを可能にします。

生態系の癒しを地球規模に当てはめると、私たちが愛し失った場所、病んで死にゆく場所、私たちが手触りを本物の経験として知っていて大切に思う場所から、視線はさまよい出てしまいます。視線は遠い時と場所に向かい、私たちの場所への愛は、大きな目的のための道具ほどのものに成り下がります。

愛する入り江から生き物がいなくなったのを見てステラが悲しんだのはなぜでしょう? 炭素を隔離し気候変動を緩和するコンブがもう育たないからでしょうか? もちろん違います。もしそうなら大きな喪失ではなかったでしょう。どこか別の場所でコンブ畑や森林を植えたり、巨大な炭素吸収装置を全ての都市に設置したりすることで、おそらく帳消しにできるでしょう。そうすればステラは幸せな気分になるのではありませんか?

友人のセッピ・ギャレットが、少年時代にお気に入りの場所だったコノードーグイネット川へ、息子を釣りに連れて行った時のことを話してくれました。彼が驚いたのは、小川は汚れてしまい、子どもがここの水で遊ぶのは危ないと言われたことでした。そこで彼は「代わりにイエロー・ブリーチズ川へ連れて行こう」と考えましたが、そこも同じように汚れているのを目にしました。彼は言いました。「その下流にはもちろんサスケハナ川があります。子供の頃に胸まで浸かって釣り場まで歩いた場所で水面に油膜が浮かんでいるのを見ると、とても悲しくなりました。」セッピは悲しみと憤りと怒りに突き動かされてフリーランスの応用生態学者になり、植生遷移を早めたり、川筋を変えたり、生物種の構成に手を加えたりして傷付いた生態系の回復を手助けする人々の運動に加わりました。私たちに必要なのは、何百万人もの人々がこのような活動に参加し、大地の声をよく聴き、大地との関係を育み、自ら大地に奉仕することです。そのような強いコミットメント[積極的な関わり]はどこから発するのでしょうか? もういちど聞きます。川面の油膜がセッピの悲しみを引き起こしたのは、化石燃料の燃焼で二酸化炭素が発生するからでしょうか?

大きな勢力を持った世界規模の炭素の物語は、それを真実として受け入れる人にとってさえ、環境保護への熱意を生み出すとは限らないのが分かるでしょう。次章で見ていく気候変動懐疑論者ならなおのことです。

あなたの子供時代の特別な場所が川ではなく森だったとしても、セッピの言葉を読んで、あなたの心はざわめいたと思います。大地、山、川、湖、海への私たちの愛を他の人たちに伝え、失われたものへの悲しみをかき立てるとき、反射的に解決と非難という態度に飛びつくことなく、私たち自身が喪失の痛みを他の人たちと分かち合うとき、私たちはコミットメントが息づく場所の奥深くへと入っていくのです。

これは、地球規模の生態系の危機に立ち向かってはならないという意味ではありません。私たちは地球規模の危機に立ち向かいます。生態系の危機は私たちが気候変動と呼ぶものを遥かに超えています。しかし、愛、気づかい、コミットメントを、自分の地域を守り再生させることへと集中し、同時に他の人たちの地域をも尊重するなら、気候危機はその副産物として解消するでしょう。全ての入り江、全ての森、全ての湿地、傷付いて砂漠化した全ての土地、全てのサンゴ礁、全ての湖、全ての山を、私たちが癒し守るよう努力するなら、ほとんどの油田掘削、フラッキング[水圧岩盤破砕]、パイプライン送油を止める必要があるだけでなく、生物圏の復元力を高めることも必要でしょう。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/the-place-where-commitment-lives/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸

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