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消える会話、残る文字

何日か前に、センスについてのnoteを書いた。

センスとは、「選べる」ことと「選ぶもののバランスが取れること」の結果をセンスがいいというのだ、というふうな内容だったはず。

僕は2月5日にnoteの更新を始めてから、noteの文章が毎日蓄積されていき、それが履歴のようにたまっている。
インターネットの発信の特徴は、過去の履歴は消せるが、過去にあげたことにはできない、ということ。
去年のバレンタインに発信した内容は消せるものの、去年のバレンタインに発信をしたことにはできない、つまり発信している人は残すか消すか選べるが、発信がない人は、過去のものはないものであり、今以降の発信をするか、しないか、しか選べない。

毎日更新するというのは、選ぶため、とも言えなくない。

しかし人には残したいものばかりではない。

残ってしまうなら表に出したくない、書きたくない、あるいは書けない。
という事柄や感情が僕にはある。

そういうときにどうするのか?
というと、信頼できる「人に話す」という選択肢の人は僕以外にもきっと少なくないと思う。
会話を通じて、解決策が判明したり、新しい感情や視点に気付いたり、話しに共感してもらえたり、書く以上に対面はたくさんの情報(表情、声、仕草、目線などなど)をやり取りしているため、情報として入ってくるものも消えていくものも共に多いし、どちらもその場限りで、お互いに何が残るかはわからない。

でもそういう環境でないと伝えることができないことというのは確かにある。

つまり何を書いて残し、何を書かないか、何を話し、何を話さないかを「選ぶ」ことも、センスの一種でもあり、それ以上にそれらの選び方が「その人らしさ」が出る部分だと思う。

書いてある形で残したいもの、書いてあるからこそ伝わるもの、会話で残らないから話せるもの、対面であったからこそ書いてあるより伝わる想い、様々な気持ちを相手の心に、そしてその逆も、どう伝えたり、どう受け取ったり、どう残したり、どう消えていくものとするか、もすべて僕らは選んでいるのかもしれない。

そうふと毎日残る文章を書いていると、文章と会話、残るものと消えるものについて考えてしまう。

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